社会の視点 主権の多様化・分散化と国家主権①

特定秘密保護法の制定と、全国で制定が進んでいる自治基本条例、また世界的に宗教や民族に基づいた権利意識の高まりは、「主権意識の多様化・分散化」の一過程と見るべきであるーーということを以前にも書いた。(社会の視点 特定秘密保護法批判の不思議③ http://taiyoubing722.blog.fc2.com/blog-entry-28.html)
改めて、サンデルの議論を引用してみましょう。
「現代において、自己統治への希望は主権の移転ではなく分散にある。主権国家に代わりうる最も有望な選択肢は、人類の連帯にもとづく世界主義的コミュニティではなく、主権を分かち合う多様なコミュニティや政治団体である」(マイケル・サンデル 『公共哲学』ちくま学芸文庫、54頁、2012年第五刷)
ここで気になるのは、我々はこの「主権」を如何なる意味に受け取れば良いのかということだ。
真に「国家主権」と同等のものとして「主権」をとらえるならば、既存の政治機構の否定を意味し、司法・行政・立法と民族や宗教が対等であるという意味になる。
この場合、例えば今日の国家間に横たわる様々な問題に見られるように、お互い話し合いか武力をもってでしか事態を前進させられなくなり、司法作用による強制力は一切無効化してしまう。主権と主権が対等であるならば、私自身に対してその権力を使えるのは私自身だけであり、憲法・徴税権・あらゆる社会法規等誰からも拘束されなくなる代わりに、また自分も他人を拘束することができなくなるからだ。
他方、地域主権強化を狙った道州制や自治基本条例といった議論は、「国家主権を前提とした主権論」として見た方がいのかもしれない。
今日では、国家が持っている権力の移転や新しい人権の創出に市民運動や司法が関わっている場面が大変多いが、いずれにしても、これらは国家が前提になっているのが基本だからだ。国家主権があり、憲法があり、そうした「権利の源泉」があるからこそ、我々は様々な「権」を享受し、また生み出すことができているのである。
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