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中立者としての庶民論

問題意識の所在

 中央・地方の如何を問わず、選挙が行われる際には「無党派層の取り込み」が第一の課題として取り上げられるようになって久しい。新聞、雑誌、テレビ、果てはインターネットに至るまで、この層の取扱いを巡って議論や分析を戦わせ、政治家達も彼らの関心をどのようにして引きつけるか日々策を練っている状態である。
 しかし、この手の議論や分析と選挙結果との結びつきが、どの程度はっきりしているのかはほとんどわからない。「大体そうであるらしい」ということが、おぼろげながら見えているにすぎない。
 共産党支持者や労働組合、経済団体、宗教団体のように、団体の主義主張と支持政党が密接に結びついている場合ならばともかく、この無党派層というものは「経済を立て直してほしい」「福祉が心配だ」「年金が心配だ」というテーマだけははっきりしているが、「このテーマに対して政治家が何をすれば正解と言えるのか」については、全くの無頓着なのだ。
 論理的に考えても、それは明らかだ。「テーマは〇〇。策は〇〇。だから〇〇を支持する」といえるのならば、それは既に無党派層とは言えない。
よって、世の様々な専門家や評論家、政治家が、無党派層の行動についてあれこれ偉そうに講釈を垂れることとなるが、所詮は人間の解釈であるため、個人のしたいように解釈している状況になってしまう。
 「自民党は何となく嫌かも。適当に民進党に入れておこう」という程度の意思が、考えの浅い民進党や評論家の手にかかれば「国民が自民党にはっきりとNOを突きつけた形だ。」という解釈になってしまうのだ。そしてさらに飛躍していき、第一線の民進党議員達は「現政権は国民の声に誠実に耳を傾けよ」などと偉そうに説教まではじめてしまうのである。「はっきりとNO」なんて、そうそう何度もあるもんじゃないって。支持者には申し訳ないけど。

 無党派というくらいだから、その行動もどっち付かずであることが前提のはずなのに、いざ選挙が終わってしまうと「確固たる意思をもった支持者」にいつの間にか変身してしまっているのである。あれ?無党派はどこへ消えた?

 本論で私が提起したい議論は、自民党や民進党についてではなく、個別の政策についてでもなく、無党派層のこの華麗なる変身の例のように、「いつの間にか、確固たる意思を持った人間に変身させられてしまっている」という状況に対して、我々はどのような姿勢で臨むべきなのかを考えることにある。

日本人はレッテル貼りが大好き

よく言われることだが、この言葉についてよくよく考えると、「レッテル貼りとは、日本人は他人に対して個人的独善的な評価を一方的に与えている」ということを意味しているように思われる。評価者と被評価者のコミュニケーションが密に行われた上で、被評価者にしてもある程度はその評価を認めているならば「レッテル貼り」などという言葉が出てくるはずが無いからだ。
刑事裁判において被告が有罪か無罪かを決するためには詳細かつ緻密に事実と証拠を積み上げ、犯行が行われた際の当事者の心理状態にまで深く入り込み、事細やかな事実認定が行われた上で結審する。弁護人と検察側の激しい弁論のもと、最終的には裁判官が判断を下すのである。判断を下すためには、一時的な感情に判断を左右されること無く、全ての情報を冷静に天秤にかけなければならない。
報道番組は問題となる事件をセンセーショナルに報道する癖があるため、この裁判の結果に対して我々は「刑が重すぎる・軽すぎる」「被害者感情を軽視している」などと無責任に言いがちだが、それは「裁判に立たされているのは極悪人であり、何を言おうと言い訳に過ぎない」という「レッテル貼り」を無意識に行っていることの表れである。「推定無罪」などという言葉は、露程も出て来ないのだ。
今、森友学園問題がテレビ・ラジオ・新聞・雑誌を連日賑わせている。この学園をめぐる不明瞭な土地の売買や政治家達との関係は問題となってしかるべきだが、教育方針やその異常性にまでマスコミが偉そうに介入しだしたのは風評被害以外の何者でもない。
確かに、この学園の教育方針や教育風景は我々にとって異様なものに移る。国粋主義を煽るその教育姿勢は、普段我々が常日頃批判している北朝鮮のそれと重なって見えるところがあるため、「異常だ!!」と感情的に批判したくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、教育方針の異常性は今回の問題点ではない。そもそも、この学園は私立であるため、我々がとやかくいう筋合いは無い(政治家との不適切な関係性があったのであればまた話しは変わるだろうが、当の政治家達はそれを否定しているし、立証もされていない。断定する決め手が無い以上は、批判を控えるべきだ。ただし、追求はすべきだ。)。それが問題なら、仏教やキリスト教が建学の精神になっている私立大学も問題視されなければならない。
にもかかわらず、既に国会議事堂周辺やネット上では断定できないことをあたかも全て事実であるかのようにあげつらい、政治家達を断罪する動きが出て来ている。人が人を裁くには、よほどの注意が必要であるにもかかわらず、こと政権批判の場面となると週刊誌の切り抜き程度で「責任をとって辞任を!!」と野党や政権に批判的な国民は容易く言ってしまうのだ。裁判の例と比較して冷静に物事を見てみると、いかに我々が性急に結論を出したがっているかがよくわかる。
そこに議論を通じた事実の追求、真相の究明という一番肝心な姿勢はどこにも見当たらない。
これをレッテル貼りと言わずして、何と言えば良いのだろうか。

日本人は、イエスとノーをはっきりいうことができない優柔不断な性格をしているにもかかわらず、他人を評価するということに関しては、いきなり自身のものの見方に自信を持ってしまうという摩訶不思議な現象が時折見られるのである(←そしてこれもレッテル貼りの一例といえるだろう)。

複雑な評価の網の中で

 他者との対話の欠如と時に対話の拒絶というレベルにまで達する会話軽視こそが「レッテル貼り」の真意であることを説いた。その背景には、自らの信念に対する絶対的な無謬性の確信、巨悪と戦う自己という圧倒的な自己陶酔、誤りを認めることへのエゴイズム崩壊の危機感に対する認知的不協和が複雑に絡み合っている。
 北朝鮮や韓国が日本を口撃するときのレトリックにも似ている。彼らは、日本が歴史認識を改めず、日本の主張は全てにおいて不当で、兄である韓民族に対する不敬を認めようともしない、それに振り回されている我々は常に被害者であり、日本は悪の権化であるという「レッテル貼り」を行う。
 彼らを批判する日本のネトウヨとされる方々も同じである。韓国で高速鉄道が事故を起こすと「劣等民族だから」「彼らに文明は早い」などと罵声を浴びせ、恥ずかしめを与え、中国との関係に関しては「はやく吸収されてしまえ」などと口走る者さえいる。ネトウヨの方々は、日本の先人達が「朝鮮は何としてでも独立させなければ、日本の存続にもかかわる」と不退転の覚悟で臨んだ外交姿勢に唾をはきかけてしまっているのである。逆に、日本側が彼らとの関係構築を行うに際して研究が不足しているなどとは夢にも思わないのだ。
 
 何やら批判をつらつらと挙げてばかりいるようだが、この双方の「レッテル貼り合戦」に巻き込まれないようにする生き方を見つけようというのが私の議論だ。
 現代は、皆がそれぞれ自分の正義を振りかざしてその正当性をぶつけ合っているというのが現状だ。そして庶民は常にそこに巻き込まれながら生きているのである。

 この現実に対して、我々が取りうる姿勢は以下の4つだ。

① どこかの派閥に属し、構成員として生きる
② 派閥を利用できるよう新たな派閥を作る(毒を以て、毒を制す)
③ その時の支配者に形だけあわせる
④ 全て拒否する


次回以降、この4つの生き方に対する論を更に少しずつ深めて行く。




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