社会の視点 法案審議を尽くさず強行採決に!?これは野党の失敗というべきだろう
私の希望として、日本維新の会・足立康史衆議院議員には、民進党をはじめとした野党に対して「審議が尽くされているとは、どういう状況なのか?」と、国会で正していただきたいと思う。それも、民進党が民主党として政権についていた時代の"強行裁決"と比較して、なにがどのように違うのか、きちんと比較した上で。
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中立者としての庶民論②
各派閥に所属しながらその一員として活躍する場合。
これは、支持する政党や政治団体に所属し、そこの一員として特定のメッセージを発信し、その内容の実現を目指すことを言う。本論は、庶民が特定の主張の中で右往左往させられることを個人の危機とし、そこから脱する手立てを議論するものであるが、これは意識的にその中に身を置くことを目指すため、その主旨からは外れてしまう。しかし、日本人はレッテル貼りを好み、それは他者との対話を行わないことに起因する思考法であるとする私の立場では、敢えて特定の主張の中に身を置くことで、それ以外の主張の中に勝手に分類されることがなくなるというメリットがある。
また、特定の派閥に所属しながら特定の行動をとった場合、それが派閥が外部から受けている評価と解釈の文脈でもってその行動が理解される、というのがある。あえて自身の労力で結果に対する釈明をしなくても、社会が派閥の論理を援用して評価を下すのだ。言い換えれば、あくまでも個々人の判断としてとられたはずの行動が、決してそうとは見なされなくなるということでもある。
この、「~として」という論法は、日常生活のあらゆる場所で見られる。いずれも、自身の過去の言動から生じた結果に対して距離を置き、事後的に評価を付け加える隙を作ろうとする時に多用される。
時の内閣総理大臣が党の総裁として改憲の話をしたのか、それともあくまでも総理大臣として改憲の話をしたのかでゴールデンウィーク明けはもめたが、これも同じことである。あるいは、民進党は民主党から党名を変更することで旧党名の負のイメージを払拭することを目指したが、結局それは失敗に終わってしまった。なぜなら、看板が変わっても中身が変わらなかったことは言うまでもないが、それによって「都合が悪いものはなりふり構わずなかったことにしようとする、究極の無責任」が形となって表れたにすぎないということがはっきりしてしまったからである。民進党が、民主党時代のことを聞かれて「うちとは違う党だ」詭弁を弄した瞬間、すべての期待は瓦礫となって崩れてしまった。多くの国民は、「党名が変わっても人は変わらない。そして、党名の変更は彼らの責任回避の性質を象徴している。支持できる要素などどこにもない」と愛想を尽かしてしまったのは、自然なことである。仮にまた与党に返り咲き「あの時の発言はどうした」聞かれても、「与党に抗議するために野党として言っただけだ。今は関係ない。」と逃げる未来しか見えない。民進党は国の将来像を持たないが、国民は民進党の将来像を既に見透かしているのだ。
両者は、「~として」という論法を多用することで、言動から生じた結果と距離をとろうとしている点が共通している。そして、どちらも信用の獲得という点で失敗している。
肩書きや所属組織の名前を変えても、行動を起こした人間は同じである。選挙の時には、彼らは個人の名前を音害レベルで絶叫して議席にありつく。しかし、いざという時には「~として」という魔法の言葉で逃げてしまう。これでは政治に対する不信感が生まれて当然である。
それでも、この言葉は支持者が支えている限りは有効な武器として作用する。結果を出し続けられる人間を支えるためには、多少の逃げ道を作っておいて、さらなる結果を作ってもらおうと期待することは、おかしいことではない。
派閥に所属した時に注意したいのが、派閥の論理が持つ強力な磁力である。
一個人では成し得ない大きな成果を、派閥はそのネットワーク、知識、資力、推進力によって生み出し、新たな名誉を付与する強力なエンジンとなっている。一個人がいかにズバ抜けた能力を有していようと、人間の集団が生み出す社会的生産物の前にはかなわないのだ。
よって、派閥が生み出す政治経済的利益の恩恵を少しでも得ようとして多くの人間がそこに群がってくることになる。ちょっと握手しただけ、名刺を交換しただけ、写真を撮っただけ。それだけなのにそれを誇らしげに語り、自身を大きく見せようとすることの滑稽さを、人間は好んで演じているのである。
彼らは、派閥の評価が高い時には散々利用するが、雲行きが怪しくなってくると手のひらを返し、無関係を装うようになる。あるいはそれができないとわかると、自分の政治的嗅覚の確かさを自慢し、「うまいこと泳ぎまわった自分」に酔うのである。何のことはない、自分が小物でずるい人間なのだだと自白しているだけなのに、認知的不協和によって、そこに自身の確かさを見出してしまうのである。
しかし、派閥の核心は、そのような無責任なものではありえない。
追い風であろうと、逆風であろうと、そこから生ずる様々な利益・不利益そのすべてに、派閥の核心に身を置く者はさらされ続けなければならないのである。
そして、この逆風の時こそ、人としての器量が試される。
逆風であろうと自身の信念を持って行動を起こしたと断言できるならば、あるいはその過ちを素直に認め、次に向けて精進することを誓うならば、派閥内部の人間、そして外から見守ってきた支持者は、「次、また頑張れば良い!」と言うことができる。とにかく、「私が自分の足で歩いたのだ。そして転んだのだ。」と言える人間は強い。なぜなら、自分の歩き方の悪い部分を見直し、次の新しい挑戦を生み出すことができるからだ。安倍総理は、南スーダンのPKOや森友学園問題に際し、自身の言葉で「不測の時には、責任をとって総理を辞める」と断言できた。だからこそ、(例え政策そのものが支持されていないにしても)国民は今の政権に安堵感を覚えるのである。
民進党は、この「私がやったのだ。でも、間違っていた。次はそれを直してまた頑張る!」ができない。民主党政権時代のことを国会で指摘されて「民進党は違う政党だ」と言ってしまったり、秘書のしたことは政治家の責任だといっていた人間が、自身の秘書のことになるとシラを切って「それとこれは別」と逃げてしまったりと、とにかく逃げる。これでは国民の信頼は得られまい。無責任な人間の集まりであるため、できることといえば小学生のような情緒的な権力への反発しかできず、政権攻撃(しかも、誰もが目を背けたくなるような稚拙な方法で)を繰り返して、結局返り討ちにあって終わってしまうのである。
どちらの姿勢を支持するにせよ、派閥の磁力は、利益を引きつけると同時にに不利益をも引きつけるということを、ここでキチンと認識しておかなければならない。
さて、ここまで「派閥」という言葉を乱用してきたが、本論において「派閥」とは、自民党の会派のみを指すものではない。ここでようやく私の定義を述べる。
「特定の思想・哲学の実現を推進する組織・共同体」これが本論における派閥である。
そしてそれに「所属する」とは、「派閥の論理に積極的かつ意図的に従い、そしてそれが対外的に明示されていること」である。
冒頭で述べたが、派閥に所属することのメリットは、「自身に積極的にレッテルを貼る」ことで評価の予見可能性を高められることにある。
日本人は、自身の意見をはっきりさせず、周りに同調することを良しとする傾向にあると言われる。その場の空気に支配されるのである。
「では、この空気を解釈するのは誰なのか?」
問題はここだ。
支配者は空気であるため、そこに人格は存在しない。人格がないということは、誰もが共通して認識することができる規範がないということを意味している。そしてそれが意味する究極のところは、「解釈者の都合によって、その者の存在の大きさによって」我々は不毛な正義を巡る争いに巻き込まれてしまうことである。
例えば、ある領土問題を抱えている国の大統領と総理が首脳会談を行うとする。総理は「私の代で解決する」と自信満々に語るものだから、国民は期待する。しかし、経済協力と多少の政治的な口約束をしただけで首脳会談は終わってしまった。両首脳の笑顔とは裏腹に、国民の顔には苦笑いが浮かぶ。その後、この会談に評価を下す世論調査がメディアによって行われ、内閣支持率が60%から40%まで下がった。
野党は現状を「期待の空気」から「失望の空気」へ変わったことを敏感に感じ取り、内閣打倒を画策する。「国民の期待に応えられなかった政権は、総辞職すべきだ」と。しかし、政権側も「話は今、始まったばかりなのだ!」と譲らない。
どちらの主張にも、ある程度の説得力がある。
「成果を出せなかった者はクビ」、「今は成果まで遠いが、これからなのだ」と。
野党は国民の間にある空気を読み取って攻勢をかけ、与党は守勢にたたされたわけだが、どちらにしても、我々国民の声をしっかり反映しているとは言いがたいのではないだろうか。
「いやいや、成果を出すにはどうしたら良いのかを考えろよ!人を変えるのは手段の1つであって、それ自体が目的になった野党は要らないよ。与党も気をつけてよ」
これこそが、国民が国会に対して最も言いたい事なのではないだろうか。
しかし、空気の解釈者である与野党は、自身に都合の良い解釈によって持論を展開してしまう。結局、国民を支配する空気がそのまま国会に届く事はなく、極端に拡大され、縮小され、捻じ曲げられ、全くの別物として作り直された形となって、その後の政争が続けられていくのである。
積極的に派閥に所属するという選択は、与野党の極端な空気の解釈から自身を遠ざける事ができるというメリットを生む。自らの意見をハッキリとさせず、尚且つ空気に支配される日本人の傾向は、覇権争いに明け暮れる政治屋の恰好の餌となるのだという事に注意が必要だ。
ここで、国民が自らが所属する派閥を政治屋に対してハッキリと言う事ができれば、政治屋はその声を無視する事が出来なくなる。空気の解釈によって生まれる不毛で稚拙な論戦から、国会を救う事ができるのではないだろうか。
これは、支持する政党や政治団体に所属し、そこの一員として特定のメッセージを発信し、その内容の実現を目指すことを言う。本論は、庶民が特定の主張の中で右往左往させられることを個人の危機とし、そこから脱する手立てを議論するものであるが、これは意識的にその中に身を置くことを目指すため、その主旨からは外れてしまう。しかし、日本人はレッテル貼りを好み、それは他者との対話を行わないことに起因する思考法であるとする私の立場では、敢えて特定の主張の中に身を置くことで、それ以外の主張の中に勝手に分類されることがなくなるというメリットがある。
また、特定の派閥に所属しながら特定の行動をとった場合、それが派閥が外部から受けている評価と解釈の文脈でもってその行動が理解される、というのがある。あえて自身の労力で結果に対する釈明をしなくても、社会が派閥の論理を援用して評価を下すのだ。言い換えれば、あくまでも個々人の判断としてとられたはずの行動が、決してそうとは見なされなくなるということでもある。
この、「~として」という論法は、日常生活のあらゆる場所で見られる。いずれも、自身の過去の言動から生じた結果に対して距離を置き、事後的に評価を付け加える隙を作ろうとする時に多用される。
時の内閣総理大臣が党の総裁として改憲の話をしたのか、それともあくまでも総理大臣として改憲の話をしたのかでゴールデンウィーク明けはもめたが、これも同じことである。あるいは、民進党は民主党から党名を変更することで旧党名の負のイメージを払拭することを目指したが、結局それは失敗に終わってしまった。なぜなら、看板が変わっても中身が変わらなかったことは言うまでもないが、それによって「都合が悪いものはなりふり構わずなかったことにしようとする、究極の無責任」が形となって表れたにすぎないということがはっきりしてしまったからである。民進党が、民主党時代のことを聞かれて「うちとは違う党だ」詭弁を弄した瞬間、すべての期待は瓦礫となって崩れてしまった。多くの国民は、「党名が変わっても人は変わらない。そして、党名の変更は彼らの責任回避の性質を象徴している。支持できる要素などどこにもない」と愛想を尽かしてしまったのは、自然なことである。仮にまた与党に返り咲き「あの時の発言はどうした」聞かれても、「与党に抗議するために野党として言っただけだ。今は関係ない。」と逃げる未来しか見えない。民進党は国の将来像を持たないが、国民は民進党の将来像を既に見透かしているのだ。
両者は、「~として」という論法を多用することで、言動から生じた結果と距離をとろうとしている点が共通している。そして、どちらも信用の獲得という点で失敗している。
肩書きや所属組織の名前を変えても、行動を起こした人間は同じである。選挙の時には、彼らは個人の名前を音害レベルで絶叫して議席にありつく。しかし、いざという時には「~として」という魔法の言葉で逃げてしまう。これでは政治に対する不信感が生まれて当然である。
それでも、この言葉は支持者が支えている限りは有効な武器として作用する。結果を出し続けられる人間を支えるためには、多少の逃げ道を作っておいて、さらなる結果を作ってもらおうと期待することは、おかしいことではない。
派閥に所属した時に注意したいのが、派閥の論理が持つ強力な磁力である。
一個人では成し得ない大きな成果を、派閥はそのネットワーク、知識、資力、推進力によって生み出し、新たな名誉を付与する強力なエンジンとなっている。一個人がいかにズバ抜けた能力を有していようと、人間の集団が生み出す社会的生産物の前にはかなわないのだ。
よって、派閥が生み出す政治経済的利益の恩恵を少しでも得ようとして多くの人間がそこに群がってくることになる。ちょっと握手しただけ、名刺を交換しただけ、写真を撮っただけ。それだけなのにそれを誇らしげに語り、自身を大きく見せようとすることの滑稽さを、人間は好んで演じているのである。
彼らは、派閥の評価が高い時には散々利用するが、雲行きが怪しくなってくると手のひらを返し、無関係を装うようになる。あるいはそれができないとわかると、自分の政治的嗅覚の確かさを自慢し、「うまいこと泳ぎまわった自分」に酔うのである。何のことはない、自分が小物でずるい人間なのだだと自白しているだけなのに、認知的不協和によって、そこに自身の確かさを見出してしまうのである。
しかし、派閥の核心は、そのような無責任なものではありえない。
追い風であろうと、逆風であろうと、そこから生ずる様々な利益・不利益そのすべてに、派閥の核心に身を置く者はさらされ続けなければならないのである。
そして、この逆風の時こそ、人としての器量が試される。
逆風であろうと自身の信念を持って行動を起こしたと断言できるならば、あるいはその過ちを素直に認め、次に向けて精進することを誓うならば、派閥内部の人間、そして外から見守ってきた支持者は、「次、また頑張れば良い!」と言うことができる。とにかく、「私が自分の足で歩いたのだ。そして転んだのだ。」と言える人間は強い。なぜなら、自分の歩き方の悪い部分を見直し、次の新しい挑戦を生み出すことができるからだ。安倍総理は、南スーダンのPKOや森友学園問題に際し、自身の言葉で「不測の時には、責任をとって総理を辞める」と断言できた。だからこそ、(例え政策そのものが支持されていないにしても)国民は今の政権に安堵感を覚えるのである。
民進党は、この「私がやったのだ。でも、間違っていた。次はそれを直してまた頑張る!」ができない。民主党政権時代のことを国会で指摘されて「民進党は違う政党だ」と言ってしまったり、秘書のしたことは政治家の責任だといっていた人間が、自身の秘書のことになるとシラを切って「それとこれは別」と逃げてしまったりと、とにかく逃げる。これでは国民の信頼は得られまい。無責任な人間の集まりであるため、できることといえば小学生のような情緒的な権力への反発しかできず、政権攻撃(しかも、誰もが目を背けたくなるような稚拙な方法で)を繰り返して、結局返り討ちにあって終わってしまうのである。
どちらの姿勢を支持するにせよ、派閥の磁力は、利益を引きつけると同時にに不利益をも引きつけるということを、ここでキチンと認識しておかなければならない。
さて、ここまで「派閥」という言葉を乱用してきたが、本論において「派閥」とは、自民党の会派のみを指すものではない。ここでようやく私の定義を述べる。
「特定の思想・哲学の実現を推進する組織・共同体」これが本論における派閥である。
そしてそれに「所属する」とは、「派閥の論理に積極的かつ意図的に従い、そしてそれが対外的に明示されていること」である。
冒頭で述べたが、派閥に所属することのメリットは、「自身に積極的にレッテルを貼る」ことで評価の予見可能性を高められることにある。
日本人は、自身の意見をはっきりさせず、周りに同調することを良しとする傾向にあると言われる。その場の空気に支配されるのである。
「では、この空気を解釈するのは誰なのか?」
問題はここだ。
支配者は空気であるため、そこに人格は存在しない。人格がないということは、誰もが共通して認識することができる規範がないということを意味している。そしてそれが意味する究極のところは、「解釈者の都合によって、その者の存在の大きさによって」我々は不毛な正義を巡る争いに巻き込まれてしまうことである。
例えば、ある領土問題を抱えている国の大統領と総理が首脳会談を行うとする。総理は「私の代で解決する」と自信満々に語るものだから、国民は期待する。しかし、経済協力と多少の政治的な口約束をしただけで首脳会談は終わってしまった。両首脳の笑顔とは裏腹に、国民の顔には苦笑いが浮かぶ。その後、この会談に評価を下す世論調査がメディアによって行われ、内閣支持率が60%から40%まで下がった。
野党は現状を「期待の空気」から「失望の空気」へ変わったことを敏感に感じ取り、内閣打倒を画策する。「国民の期待に応えられなかった政権は、総辞職すべきだ」と。しかし、政権側も「話は今、始まったばかりなのだ!」と譲らない。
どちらの主張にも、ある程度の説得力がある。
「成果を出せなかった者はクビ」、「今は成果まで遠いが、これからなのだ」と。
野党は国民の間にある空気を読み取って攻勢をかけ、与党は守勢にたたされたわけだが、どちらにしても、我々国民の声をしっかり反映しているとは言いがたいのではないだろうか。
「いやいや、成果を出すにはどうしたら良いのかを考えろよ!人を変えるのは手段の1つであって、それ自体が目的になった野党は要らないよ。与党も気をつけてよ」
これこそが、国民が国会に対して最も言いたい事なのではないだろうか。
しかし、空気の解釈者である与野党は、自身に都合の良い解釈によって持論を展開してしまう。結局、国民を支配する空気がそのまま国会に届く事はなく、極端に拡大され、縮小され、捻じ曲げられ、全くの別物として作り直された形となって、その後の政争が続けられていくのである。
積極的に派閥に所属するという選択は、与野党の極端な空気の解釈から自身を遠ざける事ができるというメリットを生む。自らの意見をハッキリとさせず、尚且つ空気に支配される日本人の傾向は、覇権争いに明け暮れる政治屋の恰好の餌となるのだという事に注意が必要だ。
ここで、国民が自らが所属する派閥を政治屋に対してハッキリと言う事ができれば、政治屋はその声を無視する事が出来なくなる。空気の解釈によって生まれる不毛で稚拙な論戦から、国会を救う事ができるのではないだろうか。