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社会の視点 民主党の細野さんは党を立て直せるのか?

民主党の細野豪志前幹事長は30日、岐阜市内で講演し、日本維新の会の松野頼久幹事長代行やみんなの党の江田憲司前幹事長らとともに来月設立する超党派の勉強会について、「新党じゃないかという記事が出ていてご心配の向きがあるが、ご安心ください。私は民主党を立て直します」と述べ、新党結成に向けた動きとの見方を否定した」(11月30日 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131130-OYT1T00575.htm?from=ylist)

 安倍政権を誕生させた衆議院選挙から、およそ1年。「アベノミクス」の3本の矢が効いてきたのか、日経平均株価は1万5千円台と年初の1万3百円台から5千円も上昇している。消費者物価指数も上昇しており、一見すると経済が好転してきているように感じられるが、そもそもの賃金は未だ上昇の兆しが見えず、物価指数上昇も円安による輸入価格上昇によるところが大きい。その為、今日の経済状況は、本格的な景気回復とまでは言えないだろう。

 とはいえ、そうした勢いに押され、(見かけさえも)経済回復を実現させられなかった民主党にとって厳しい状況であることに変わりない。
 09年の選挙では、マニュフェストに聞こえの良い政策を羅列し、「消費税は増税しません」と断言したまではよかったのだが、その後一転して「増税します」と宣言。加えて東日本大震災という未曾有の大災害に適切な対処ができず、「日本で一番復興の足を引っ張っているのは民主党政権」という情けない姿を内外にさらしてしまった。外交面もガタガタで、尖閣諸島沖で中国漁船衝突事件に弱腰で対応し、沖縄米軍基地移設問題を迷走させ、韓国大統領の竹島上陸を阻止できなかった。当然の結果として支持率は低下の一途をたどり、野田政権時には20%を割り込んでしまったのだ。
 
 当時から言われていたが、民主党は「反自民」でまとまっている節があった。自民党が保守、つまりは右寄りな姿勢という確固たる思想的価値観があった一方で、党員の思想がバラバラな民主党は積極的な政策を打ち出すことができず、結果として、「国民の生活が第一」という意味不明なスローガンを掲げることしかできなかった。「生活が第二」なんて政党、そもそも存在するのか?
 敵がいる間はよかったが、敵がいなくなりいざ自らが「作る側」になると、自民を攻撃していた時よりも多大な労力と知識と知恵、そして権力を動かす思想が重要であったと気がついたときには時既に遅し、「ルーピー鳩山」の出現、「空き缶内閣」という最悪のタイミングでの大震災と続く。

 こうして見てみると、民主党の敗因は、やはり「国を動かす思想」面で自民に負けていたという点につきるだろう
 自民は、天皇制保守を掲げ、経済政策も諸外国のお手本に乗っかり、思想全般的に「日本の価値観を守る」というわかりやすいスタンスがある。我々は、日本的なるものが如何なるものか、又自民党時代の生活がどのようなものだったのかが分かっているため、自然に自民の政策を受け入れることができた(自民側の巧みな宣伝もあったろうが)。
 対する民主党には、そうしたものがない。あくまでも「反自民」ありきの結束しかないのだ

 自民党の最大の弱点は、保守政策そのものにある
 個人の権利が拡大し、世界的にも人権意識の高まり、主権意識の高まりが起こり、上からはボーダレス化、下からは民主化の流れが激しくなってきている。保守政策は、国民に「公共秩序・財産の一部であることを強いる」という点で、今日的な流れと矛盾しており、民主党はそこを突き国民にPRすることができれば、支持を得られる可能性がある。
 とはいえ、今の日本人は東アジアにおいて根本的な危機に直面している。
 中韓の「我々は被害者だ」という叫びは、「我々は謝罪した!!被害者面して日本を陥れたいんだろ!!」という感情に結びつきつつあり、また彼らの過剰な自信による高慢な態度がそうした事情に拍車をかけている。
 民主党は、そうした国際的な潮流と東アジアの事態の中で調整をかけつつ、保守政策の根本矛盾をついていかなければならない。
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歴史の視点  新しさは錯覚である

 新しいと思われていたものが、調べてみれば新しいものでもなんでもなく、寧ろ常に人類史の中に出てきていたという話しは、特段珍しいものでもない。

 例えば、婚姻制度はどうだろう。

 非婚化晩婚化と言われて久しいが、せっかく結婚しても、生活の場が離れていたり、婚姻届をだしたわけではないが、結婚したのと同じ状態にあるものと自他共に認める事実婚であったりと、婚姻(広く夫婦関係)の形はかなり多様だ。
 一昔前までは、婚姻といえば新郎新婦の両親の関係や生まれ順(例えば長男か次男か、といったこと)が大きく作用したし、新郎新婦の親族や友人、会社の関係人を集めて披露宴を行うというイメージも強かった。女性について言えば、結婚は自身の名字を変え、殆ど見ず知らずの新郎の家の一員になるということでもある。女性と姓の関係は、特に特殊で古い問題ではない。学問の世界からワイドショーの世界まで幅広い層が関心の対象としてきたものである。

 このような「古い」結婚観からの変化は、一部の層からはこれまでの封建的な価値観からの明確な脱却であるとされ、それは明らかな「進歩」であるとされた。この場合の進歩とは、しかしながら、「2000年前の骨董品」(注1)をはじめて見たときのような感覚でしかない。

 というのも、一定の契約書に従って仲立ち人なしで婚姻を行うという行為自体は、2000年以上前のエジプト下層民が頻繁に行っていたことだからだ。婚姻の解消(離婚)は、単に法律上の契約の解除程度のものでしかなく、今日の我々が結婚に抱く「家族ぐるみ、一生もの」と比べれば、かなり程度の軽いものでしかなかったのである。

 話しは変わって、病気の世界はどうだろうか。

 鳥インフルエンザ――というと、我々の記憶にあるのはここ数年で猛威をふるったウイルスで、養鶏農家に大打撃を与えた疾病であるということくらいだろう。農水省の公表によると、日本で最初に鳥インフルエンザが確認されたのは平成22年11月以降で、9件24農場で高病原性鳥インフルエンザが見つかった。平成23年3月24日には全ての防疫措置が完了し、同年6月にはOIEの基準に基づいて、鳥インフルエンザ清浄国に復帰したという。(注2)

 このように聞くと、鳥インフルエンザはつい最近の流行病のように感じられてしまうのだが、実際には19世紀の文献に既に登場している。ウイルスのタイプまで確認されているのは1959年スコットランドでの流行で、以降、数年に一度は鳥インフルエンザが流行している。(注3)

 婚姻制度にせよ、インフルエンザにせよ、我々が気をつけなければならないのは、新聞や教科書、テレビ、雑誌で与えられた「新規」と思われる情報が、その実新規でもなんでもない可能性である。最後に、更に身近な例を挙げよう。

 この間、私はたまたま見ていたテレビで、夜の街を巨大な白い物体がトラックで運ばれていくシーンを見た。モザイクがかかっており、出演者がそれは何かを答えるのだが、どう見ても「輸送される新幹線」なのである。私は、同じような映像を過去2度見ている。小さな子供であれば、新幹線がトラックで運ばれていく様子は新鮮そのものであるに違いない。それはその子にとって「新規」なものだ。しかし、中高大とすすむにつれ「毎回同じようなものをやっている」と思うようになる。そして、少し賢い人であれば「自分が小さいときにみた映像も、多分繰り返しのワンシーンだったのだろう」と理解するはずだ。

 新規かどうかは、歴史を学べば自ずと判断できるようになるだろう。私はそこまでするだけの体力も教養もないが、それらが備わっているひとはやってみてほしい。

注1 山本七平『存亡の条件』ダイヤモンド社、18頁
注2 農林水産省「鳥インフルエンザに関する情報」(http://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/tori/index.html)
注3 美馬達哉『リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー』青土社、88頁

社会の視点  社会を変えるべきVS国を変えるべき

 自民党と民主党。この二つの政党を分つ最大のものは何なのだろうか。言い換えれば、思想の源泉は何なのだろうか。経済や税金、TPP等、各政策について様々な意見が聞こえてくる中、ふと職場での会話を思い出した。

 「誰が言っていたか失念したけれども、民主党は社会を変えることを、自民党は国を変えることを目ざしていた」と言っていたのは、会社役員であった。話半分に聞いていただけなのだが、彼の意見を聞いて、私は妙に納得させられた。
 話しの詳細は忘れてしまったが、要約すると彼の意見はこうなる。
 「社会を変えるということは、人の心を変えるということだ。人の心を変えるというのは大変恐ろしいことである。国ができるのは、変わっていく社会を受け入れられるだけの器を作ることだ。であれば、国を変えるという意見の方がいい。」
 
 どちらが良いのかは、それこそ時代が決めることだが、社会を変えようとした極端な例として社会主義が私にはイメージされる。これは国も変わってしまっているが、全員平等の格差否定の世の中を善とした結果、それを目ざす政権が強制的に社会を変えていった事例である。その結果、経済資本の効率性は下がり、経済的失敗がなければ成功もないので人々は仕事に身が入らず、自殺率は上がり、バラ色のはずだった社会主義は、寧ろ社会的停滞という灰色の現実を招く結果となってしまった。

 社会を変えるという取り組みは、器の中身を変えるということである。そのため、その変化についていけない人が出てきた場合、その人をどのように処遇するのかは重大な関心ごとになる。
 聞くところによると、中国では、北京オリンピック開催にあわせ、公共交通機関でのマナーを徹底するよう取り組んだ。しかし、その取り組みは、マナーを守らない人に対する徹底した制裁(暴行など)までも許容されるという解釈を生み、社会の新たなひずみを生んでしまったという。
 どうも、国主導で社会を変えるというのには無理があるようだ。

 そのように考えるならば、中身の変革は民間が担い、国はその変革を見極めつつ器を作るのに徹した方が良さそうである。
 何がいいのかはその時々で変わるのかもしれないが、それは時代が決めることなのであろう。

社会の視点 移動需要市場の規模

買い物、通勤通学、習い事の送り迎え、抱き合わせ出荷等、様々な移動起点や移動ニーズをもとにした消費行動で創出される移動需要が存在する。都市部では自家用車保有のコスト高を敬遠して公共交通機関の利用が中心となり、地方では電車、バス、といったものが中心となる。いずれにせよ、「移動そのもの」に対する需要を冷静に捉えなければならないのは、いうまでもないだろう。

こうした移動需要の潜在的な市場は3兆円から4兆円前後存在する
こうした需要喚起には、移動目的そのものを喚起する仕組みの構築と、信頼性のある交通体系の構築、利用の自由度を高める工夫が必要となる。

社会の視点 特定秘密保護法批判の不思議③

不思議⑤ 政治権力の相対的弱体化が、秘密保護法指向につながったと、何故言ってはいけないのか。

2003年に成立し、05年に全面施行された個人情報保護法。インターネットや各種高度通信技術の普及に伴い、個人情報の利用が各方面で拡大していることから、個人情報利用の有用性に配慮しつつ、個人の権利を保護する為に制定されたものです。(「個人情報保護法制の整備について」首相官邸 http://www.kantei.go.jp/jp/it/privacy/houseika/hourituan/)
個人情報保護法が個人の権利保護の為であるのに対し、それとは別に、時の行政改革と公正で民主的な行政の実現の為の基礎的な制度として登場したのが、情報公開法です。(「情報公開法制の確率に関する意見」行政改革委員会 http://www.soumu.go.jp/main_content/000121081.pdf)
同制度は、国民一人一人が政府の諸活動の状況を知ることで、責任ある意思決定を行い、望ましい政府と国民のあり方を希求することを理念目的としています。
こうした流れによって、国民が「守ってもらう・能動的に行政に請求する」という権利が具体的に確立され、その後も非嫡出子の相続差別の違憲判決、障害者雇用の促進等、国民の権利が順調に拡大されてきました。

個人の権利が拡大し「自己コントロール」が容易になるにつれて、我々は自身に対する主権者としての振る舞いが、自由にできるようになりました。
こうした流れは、国家が国民を公共物の一つとして扱う保守的な考え(つまりは安倍自民)とは違い、より革新的な流れのなかにあるといえます。

国家と国民という関係性で見れば革新的な流れといえる今日の状況ですが、個々人の諸権利の強化・拡大、地域主権への希求という流れに注目すれば、保守の主役が国家から地域や民族性というものに移ってきたと考えることもできます。
政治哲学で有名なハーバード大学教授マイケル・サンデルは、「現代において、自己統治への希望は主権の移転ではなく分散にある。主権国家に代わりうる最も有望な選択肢は、人類の連帯にもとづく世界主義的コミュニティではなく、主権を分かち合う多様なコミュニティや政治団体である」(マイケル・サンデル 『公共哲学』ちくま学芸文庫、54頁、2012年第五刷)と述べていますが、このように「主権」というものは、昨今では国家に対してのみ言われるのではない、多様性に富んだものになってきているのです。

こうした諸権利の拡大によって、国民の主体性は強化されてきましたが、一方で強力な力を持つ国家主権は相対的に弱まってきました。下からは国民の諸権利の拡大、上からはグローバル化する資本や政治力学・テロといったものが、ハード・ソフト両面から国家に対して強力な挑戦状を叩きつけ続けてきたのです。
強力だったはずの政治権力が相対的に弱体化されたことによって、政治は危機感を持つようになります。結果として、国民の諸権利を守り、損なわないように注意を払いつつ、政治・国家的統一性を維持する為、情報のコントロールを指向するようになります。その情報の中で最も重要な外交や防衛、テロ対策といった分野に対しては、特に厳しいコントロールを及ぼそうと試みますが、それが今日の「特定秘密保護法」だと言っても良いでしょう。

歴史の視点 歴史認識の方法~未来から現在を規定する④

【矛盾する社会化された私 幸徳秋水や堺利彦も結局は日本人】
「私は、私」しかし「相手から見た私は、私自身が認識する私とはまた異なる」。単純で当たり前のことなのだが、この単純すぎる事実が、私的空間・公的空間の各所で見受けられる様々な論争や紛争の火種となっている。今回も、歴史認識問題と絡めてみていく。

 ここで再び、何度か紹介した「認識の歴史」について取り上げたい。また、対概念として「伝統としての歴史」を紹介しつつ取り上げ、「社会化された私」の葛藤を考察していきたい。 
 山崎正和氏は『歴史の真実と政治の正義』(中央公論社)の中で、「認識の歴史」とあわせて「伝統としての歴史」を歴史認識として挙げている。
 「伝統としての歴史」とは、山崎氏の説明によれば「地域性にねざし、主体は共同体であるとともに、その対象も共同体の同一性である。目的は共同体の情緒的な結束である。」とし、「(認識の歴史との間で)問題が起るのはここに一つの歴史外の力が働いたときであり、それが両者を強引に統一しようとしたとき」であるとしている。

 私の考え方として、この「伝統としての歴史」とは「社会化された私」と同じ次元のものである。
 なぜなら、「伝統としての歴史」は共同体の同一性を生むものとして、その土地と空間・環境・人間の情報緊密化によって育まれた、所作の癖・言語の深化・行儀作法から宗教的作法にいたるまでの全てを包摂した、全てに先立って存在しているものであり、「社会化された私」は自分自身に対する評価ではなく、他人が自分に与えた像を指すものであるからだ。
 簡単にするために極端に言うと、過去の時代、日本人の中に幸徳秋水(1871―1911)や堺利彦(1871―1933)のように反戦を訴えた者がいたとしても、日本という国が戦争をしたのは事実であり、それは誰の手にもかえる事ができない「伝統としての歴史」である。それは当然に「伝統としての歴史」がカバーしている共同体に生まれながらにして属している「日本人」をも含んでいる。この「日本人」の考え方は「社会化された私」そのものである。幸徳秋水や堺利彦がいくら反戦論者(非戦論者といった方が正しいが)だったと主張しても、「でもあなたは日本人だった。主観で反戦論を展開したって、客観的には日本人なのだ」といわれてしまえば終わりである。
 幸徳秋水と堺利彦は、社会主義論者だった。幸徳秋水は1910年の大逆事件で翌年処刑されてしまうが、彼らは主観的には無政府主義・社会主義の推進を掲げて活動していた(国内的には客観的にも社会主義者だったろう)が、「日本人」という名で海外から「2人の社会化された私像」を見てみると、「戦争国の一因だ」とされてしまうのである。

 「認識の歴史」は、「何が歴史か」が個人の主観によってことなるということであった。
 そして「伝統としての歴史」は「社会化された私」に対し自動的に一定の評価を与える。例えば、「あいつは日本人だ」だとか「あいつは戦犯国の子孫だ」といった具合である。
 この二つの間には、深刻な矛盾がある。
 自身を社会主義・無政府主義者と自任する者が、一方では生まれからして自動的に戦争国の一員になってしまうという幸徳・境の矛盾。平和的発展を目指していながら、他国から軍事的警戒感を向けられる中国の矛盾。従軍慰安婦はいなかったと信じていながら、国家レベルでは存在を認めているため主張するたびに内外で問題になる政治家の矛盾などなど。
 この矛盾を解消する方法があるとするならば、それは自分を他人の「私像」に合わせるか、中国の「小人革面」のように「私は私として自由にやる。歴史?政治家がもてあそぶものでしょ?」というように「自分からは判断をくださないから、何を思われても矛盾しないでしょ」という態度しかあり得ないことになる。

 我々は、如何なる立場をとるべきなのだろうか?私の4回にわたる詭弁は以上とし、そこからさきは、それこそ個人の主観と考察にお任せしたい。

社会の視点 特定秘密保護法批判の不思議 ②

 不思議④ どうして「戦前回帰」を持ち出さねばならないのか
 長くなりますが、共産党が最左翼だけに分かりさすいので引用します。
 「小池氏(共産党副委員長・参院議員)は、秘密保護法案について「何が秘密かも秘密にし、政府が勝手な口実で、何が秘密かも分からないうちに国民を逮捕、投獄するものだ」と指摘。「外交・防衛の専門分野の人だけでなく、多くの国民がこの法律で弾圧される危険性がある。国民みなさん自身の問題だ」と強調しました。」(「しんぶん赤旗」2013年11月3日)
 共産党副委員長で国会議員の発言ということで、同党の政治的イデオロギーが改めてわかる発言です。
 同法は「特定秘密を扱う公務員や警察官、民間業者などがこれを漏らせば、最長懲役10年の罰則が科せられる。」また「漏洩をそそのかした場合は最長懲役5年となるが、知る権利を保障する観点から、出版、報道の取材行為については、法令違反や著しく不当な方法でない限りは正当とする。」(http://www.asahi.com/topics/word/特定秘密保護法案.html)と規定し、問題となる事案が発生すれば、裁判所で決するというのが正当な考え方になるはずですが、共産党はそうしたことも全て無視してしまい、裁判所さえもが機能しなくなる戦前への回帰を前提として議論をしています。
 しかし、そもそもなぜ特定秘密保護法一つできたくらいで弾圧が起るのか、「弾圧」とはどのような事態をいうのか、それを彼らは説明していません。そういえば、「国政に審判を下す国民が情報不足で判断できなくなり、民主主義が危機に陥る」と批判している人もいます。
 
 インターネットやその他ツールで情報が国境を簡単に超える時代にあって、国民の人権を侵害するようなことを国が行えば、国際的な非難が起ることは必至です。確かに、北朝鮮やシリアのような国もありますが、日本のような先進国で、しかも国連迎合的国家がそうなるとは考えにくい。にもかかわらず、何故、そうした事態が起るといえるのか?

 「たかがたった一つの法律」といってはいけないのでしょうが、それにしても「弾圧が起る」「民主主義の危機」といえるほどの状態なのかといわれればやはり疑問がある、というのが正直なところなのではないでしょうか。

歴史の視点 未来から現在を規定する③

【社会化された私】
 前回まで、「認識の歴史」についてふれた。
 歴史認識問題に対し、それに賛成する者も否定する者も共通して「歴史的過去→歴史的現在→歴史的未来」という流れで歴史をとらえているものの、認識する主体が何を歴史として認識しているのかで、例えば憲法改正問題に対してまったく逆の見解となるということを検討した。
 そして、この「認識の歴史」によって導きだされた「歴史的未来」によって、我々はその未来への接続点である「歴史的現在」のあるべき姿を規定しているということを、私は述べた。
 
 以前、鳩山元首相が香港のテレビで「中国側から『日本が(尖閣を)盗んだ』と思われても仕方がない」と発言したというニュースが飛び込んできた。元首相経験者が、政府見解と異なる発言をし国益を損ねる言動をとり続けようとするその動機は不明だが、強いて知る必要もないだろう。何せ彼は、その後「そんなこと言ってない」としゃあしゃあと述べたのだから。精神病か何かなのだろう。
 このニュースを見て、私は名前と肩書き、そして歴史認識の関係について考えてみた。
 人間は、生まれて初めて名前を与えられる。そして成長の過程で、小学生、中学生、高校生、大学生、会社員、会社課長、会社社長というような社会的肩書きが与えられていく。肩書きは、個人の名前に引き寄せられて一つずつ加わって行き、やがて生身の人間とは異なった、社会化された人間となって世に登場することとなる。
 例えば、「私は私だ」という意識は、私自身を拘束している。他人が自分をどのように認識していようと、自分のことを真に理解しているのは自身だけである。なぜなら、私は24時間365日、死ぬその瞬間まで自分と共に居続ける唯一の存在だからだ。だからこそ、「私は私だ」という意識を持ち得、また持ち続ける資格を持つ。しかしそれは、時に自身を過大評価し、時に過小評価し、偏ったものになりやすい。
 他人は、例え家族、友人であろうと所詮は長い自分の人生の一部の時間を共にしているに過ぎない。どんなに自身に対する理解が深まったとしても、所詮それはその人の前でのみ現れる限定的な自分であり、それらを全てつなぎ合わせても本当の私にはならない。私自身が理解している「私」と同じにはならないのだ。例えば就職活動は、他者から見た私と、私自身が見ている私の間の深刻な分裂と矛盾を強制的に認識させられる作用を持っている。どんなに「〇〇が好き!〇〇になりたい!」と思っていても、他人が「いや、あなたにはむいていない。もっと適した仕事がある」と認識すればその仕事に就ける可能性は格段と下がる。
 しかし、この「他者から認識されることで生まれる、異なった私」は、明らかに社会的に認知された私である。私の意思とは無関係に、他者の中に私の像が埋め込まれ、それが名前や肩書きによって再生される。
 それが「社会化された人間」である。
 「私は私だ」という意識は死ぬまで途切れる事なく続くが、他者から見た「私」は、コミュニケーションをとり「他者の色眼鏡」を通した時にしか存在しない。

【肩書きが生む歯車化された私 商品化された労働力(マルクス)】
 名前に引き寄せられる肩書きは、個人の能力と社会的地位を表している。
 例えば、社長業だ。企業間の合併・統合、その他会社やビジネスの重要事項に伴う決定は、会社の全ての情報を自在に引き出せ、運用できる社長に任せた方が円滑に進む。社長たる代表取締役は、会社法・商法上、企業を代表して職務を執行しまたそれを登記しなければならないこととなっている。それは、(株式会社であれば)株主がその個人の能力を認め、対外的にはあらゆる責任と職務の中心であるということの宣言にほかならない。
 企業の経営はその代表取締役を中心にして行われていく、まさに「代表取締役=歯車」というわけだ。
 社長業に限らず、働く者は言ってしまえば全て歯車である。重要度や能力の希少性でその役割は変わってくるが、それがなければ業務は回りづらくなる。
 ただ、この歯車とは、個人が有している能力や資質の中で「その業務を遂行するに適したもの」を取り出して言っているにすぎない。マルクスは『資本論』の中で、人間は労働力を商品として資本家に売り、生産過程に入り込むことで商品に価値を加えていく旨説いたが、それは私の解釈ではこうだ。
 つまり、「個人の能力=どのような歯車になれるのか」、「社会的地位=歯車の希少性」なのだ。そして肩書きとは、その歯車の名称なのだ。

次回→「社会化された私」は、相互に矛盾する。歴史認識問題に見る矛盾の激突

週末京都〜京都古本祭りを行く〜

京都の三大古本まつり(祭りではなくまつり)は、春、夏、秋に開催される文字通り古本が主人公のおまつりである。

私はこのおまつりを小説『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦)で知り、「本好きでありながら、何故今まで知らなかったのか」と自身の情報能力の低さに悔しい思いをした。学生時代のことである。
「ならば、行ってみようではないか!!是非行こう!!ずんずん行ってしまおう、そうしよう!!」と決意を固めたのはいいものの、そこから行くタイミングが掴めないままあれよあれよという間に時間が過ぎ、まるで矢のように過ぎ去って行く怒濤の人生イベント達に遊ばれているうちに、3年の月日がたってしまった。
もったいない。もったいないが、まつりの期間と私の時間が合わないのだ。若者の活字離れを憂う暇があるなら、行く意欲のある私に合わせて開催しろと声を大にして言いたい。

今年、私は仕事の時間に余裕ができた。
しかも、学生時代とは違ってLCCと呼ばれる種類の航空会社が格安で関空まで便を飛ばしているという。
さらに、今は空前の「週末旅行ブーム」であり、週末の金曜日夜から日曜日にかけての時間で旅行に行くのが都会を中心に一大ムーブメントとなっているようなのだ。

これはもう、「今でしょ!!」だろう?

そんなわけで、私は関空行きのチケットを購入し、京都を目指すことにしたのである。

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社会の視点 「秘密保護法」批判の不思議

 衆議院で審議入りした「秘密保護法」案。この法案の概要は、外相や防衛相らによって指定された特定秘密(防衛・外交・スパイ活動防止・テロ防止)の利用者を制限し、また情報漏洩を行った公務員への罰則を強化することを目的としたものです。
 情報漏洩を行ったものへの処罰規定は今でも別の法律に記載されていますが、今回は秘密の対象を防衛や外交に限らず「国の安全保障に著しい支障を与える恐れがある情報」に広げ、一律に最高十年の懲役を科している点が異なります。(東京新聞10月4日)

 毎日のように「知る権利の侵害だ」「秘密の範囲が際限なく拡大されてしまう」などと批判的報道がなされていますが、私はこうした批判が不思議でなりません。それは、以下のようなことが言えるのではないかと思うからです(ただし、私は法律の専門家ではないので、内容の正確さは保証できませんが)。

不思議その1 憲法裁判所の設立を求めてみては?
 通常、裁判所の役割は具体的な係争に対して法的決着をつけることです。しかし、憲法裁判所は具体的係争とは関係なく、法律やその解釈そのものが合憲か違憲かを判断することができます。
 日本には憲法裁判所はなく、何らかの係争(例えば、嫡出子と非嫡出子との間で、相続差別があることを争った例)があったときに、付随的に違憲か否かを判断することしかできません。
 国家機密というものが世の中に存在することは否定しようがありません。日本はもともと、他の先進国と比べて秘密の保全に対して法律も罰則も弱かったわけですから、秘密保護法の制定は寧ろ「おそ過ぎる」ことになります。
 その為、法制定の動きは当然であるにしても、同時に国民の権利をより強化することを考えなければ、健全な法治国家とは言えないのではないでしょうか。その際の必要な作用として、憲法裁判所を設立し、特定秘密指定解除(延長)のタイミングにでも、其の当否を決してみてはどうでしょうか。

不思議その2 「スパイ天国日本」の嘆きはどこへ言った?
 以前から、日本にはスパイ防止のための法律がなく、スパイ天国状態であるということは度々指摘されてきました。その結果として、北朝鮮による拉致事件の発生を抑止できなかっただけではなく、日本人に成り済ました工作員への対処が困難であったという状況がありました。そういえば、電気製品が集中する秋葉原では、かつて朝鮮系の人々が暗躍していたらしいですが、今はどうなのでしょうか。
 北朝鮮による拉致が連日テレビを賑わせていた頃、同時に工作員が日本でどれだけ活動をしていたかという報道も連日のようにされていました。
 これらの報道を一言で言うと、「やられたい放題」。どれだけ日本は諸外国から馬鹿にされていたのか、この時初めて世論がそうした事実を目の当たりにしたのです。
 そうであれば、この「やられたい放題」から抜け出す為には、何らかの手だてを考えなければならないはずなのですが、今回の「秘密保護法」とスパイ活動の結びつきの議論を取り上げるマスコミは全くありません。もしかしたら、どこかにこうしたことを議論している識者や議員がいるかもしれません。是非、そうした人を探り出してほしいものです。
 とはいえ、スパイ防止法が制定できないならば、少なくとも「秘密保護法」のようなもので代用するしかないでしょう。

不思議その3 「知る権利」の侵害か?追求者の力量不足か?
 「知る権利」と皆口々に言いますが、そもそもこの権利が完璧に行使されたことはあるのでしょうか?
 夕方の報道番組を見てみると、どこかの行政から得た文章は必ず重要なところが黒塗りにされており、「これで情報公開といえるのか?」状態。また、国会の質疑応答を見てみれば「記憶にございません」「見解の相違」「秘書がしたこと」などのマジックワードのオンパレードで、「秘密保護法なんて、なくてもいけるじゃないか!!」と私は思うのですが。
 また、行政を追求する方にも問題があります。民主党政権の時代、鳩山元首相が「沖縄米軍基地問題の解決」と言った際、小泉進次郎議員が「解決とは、どのような状態のときか」と正したシーンがありました。テレビのコメンテーターは、「ディベート力がある」と持ち上げていましたが、そもそもこうした「曖昧さを許さない」姿勢が問題点を暴くのであって、それが追求者の側には足りないのではないでしょうか。
 マスコミや野党には、そうしたものの総括も是非行ってほしいものです。「知る権利」を「なまくら刀」にしているのは、彼らなのですから。

 以上、ざっと3つ挙げましたが、考えれば考える程まだまだ出てきそうなので、今日はこのへんで。

オススメ!!世界をおっきく小さくする読書

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また、英語での日本情報発信(主に私の英語の練習のためですけど)も行っていますので、「この英語、変じゃない?」という指摘も送って下さると助かります。

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