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平昌五輪を前に、くだらない憶測記事が流れる日本

「某女性選手が2,000万円のベンツを愛車にし、高価なものを贈られて大喜びし、散財もしている。」「一部週刊誌がその某選手のスキャンダルを押さえているという情報もある。」「五輪の結果いかんでは辛らつな表現で報じられるかもしれない。」
 これは某ジャンプ女子に対する記事の一部である。2018年1月21日に配信されたものだ。

 新聞にせよテレビにせよ、そして週刊誌にせよ、日常的に降って湧き出ては消えて行く胡散臭い記事達の中で、このような記事は何を意図して世に出されるのだろうか。

 この記事は「本人は高級品に囲まれ、散財している」「五輪の結果しだいではスキャンダルが…」と述べているが、ここから導きだされる個人像は「お高く止まった人物像」。これは個人に対する不当な口撃・名誉毀損行為であり、また立派な脅迫材料として機能している。もしこの記事が選手本人の目に降れ、パフォーマンスを下げる結果になった場合、その責任はどう考えてもこの記事にある。にもかかわらず、堂々とこのようなことを世に発信できるのは、寧ろそれを願った結果ではないのかと考え方もできてしまう。

 もう少し別角度から見ると、「この選手にお金をかけている企業に対する脅迫」とも見て取れる。「この選手に金を使うのはいいが、結果次第ではあるところからスキャンダルの報道がなされる。世に広まれば企業イメージを著しく損ねる結果になり、それによる人的財務的損害は甚大である。それが嫌ならスポンサーから降りることだ。」というストーリーである。

 いずれにせよ、「本番で結果を残せなかった」ことと「スキャンダルを暴露される」ことの間に因果関係はない。
 そもそもスポーツ選手における「スキャンダル」とは何なのだろうか?恋愛?不倫?麻薬使用?ドーピング?暴力?飲酒? はっきりいって、麻薬や飲酒運転のような重大な犯罪でなければどうでも良い。スポーツ選手はスポーツをして結果を残すことが本業なのであって、それ以外には無い。
 多少の醜聞があったとして、「だから何だというのだ??」以外の感想が思いつかない。政治家が外国から献金を受け取ったというのであれば、それは立派な「スキャンダル」であろうが、これは本人がスポーツに熱中した結果、良い成績を残すことができたか否かだけが問題である。やはり「スキャンダル」などどうでも良いことになってしまう。違法な行為があれば、しかるべき機関がしかるべき行動を起こすし、スポンサーの企業が怒るようなことがあれば、その企業が行動を起こす。マスコミはそれに卑しくも乗っかる。たったそれだけのことである。

 スキャンダルがスキャンダルとして機能するためには、我々ニュースの受け手がそれを軽く受け流すか、問題視するかによって左右される。誰も相手にしないとなれば、スキャンダルでありようがないのだ。本人の評価が左右されることが無いからである。

 ところが、日本人は重大な政治や経済のニュースには恐ろしく無知か無頓着であるのに、こうしたスポーツ選手のスキャンダルには驚く程興味を示し、そしてマスコミは詳細に報じるのである。普段から頭を使わないから、簡単なスキャンダルに飛びついてしまうのだ。

 この記事に一言感想を述べるなら、「本番前に選手のモチベーションを下げるようなくだらないことを言うな。人の足を引っ張るな。」に尽きる。
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社会の視点 法案審議を尽くさず強行採決に!?これは野党の失敗というべきだろう

私の希望として、日本維新の会・足立康史衆議院議員には、民進党をはじめとした野党に対して「審議が尽くされているとは、どういう状況なのか?」と、国会で正していただきたいと思う。それも、民進党が民主党として政権についていた時代の"強行裁決"と比較して、なにがどのように違うのか、きちんと比較した上で。





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中立者としての庶民論②

 各派閥に所属しながらその一員として活躍する場合。

 これは、支持する政党や政治団体に所属し、そこの一員として特定のメッセージを発信し、その内容の実現を目指すことを言う。本論は、庶民が特定の主張の中で右往左往させられることを個人の危機とし、そこから脱する手立てを議論するものであるが、これは意識的にその中に身を置くことを目指すため、その主旨からは外れてしまう。しかし、日本人はレッテル貼りを好み、それは他者との対話を行わないことに起因する思考法であるとする私の立場では、敢えて特定の主張の中に身を置くことで、それ以外の主張の中に勝手に分類されることがなくなるというメリットがある。

 また、特定の派閥に所属しながら特定の行動をとった場合、それが派閥が外部から受けている評価と解釈の文脈でもってその行動が理解される、というのがある。あえて自身の労力で結果に対する釈明をしなくても、社会が派閥の論理を援用して評価を下すのだ。言い換えれば、あくまでも個々人の判断としてとられたはずの行動が、決してそうとは見なされなくなるということでもある。

この、「~として」という論法は、日常生活のあらゆる場所で見られる。いずれも、自身の過去の言動から生じた結果に対して距離を置き、事後的に評価を付け加える隙を作ろうとする時に多用される。

 時の内閣総理大臣が党の総裁として改憲の話をしたのか、それともあくまでも総理大臣として改憲の話をしたのかでゴールデンウィーク明けはもめたが、これも同じことである。あるいは、民進党は民主党から党名を変更することで旧党名の負のイメージを払拭することを目指したが、結局それは失敗に終わってしまった。なぜなら、看板が変わっても中身が変わらなかったことは言うまでもないが、それによって「都合が悪いものはなりふり構わずなかったことにしようとする、究極の無責任」が形となって表れたにすぎないということがはっきりしてしまったからである。民進党が、民主党時代のことを聞かれて「うちとは違う党だ」詭弁を弄した瞬間、すべての期待は瓦礫となって崩れてしまった。多くの国民は、「党名が変わっても人は変わらない。そして、党名の変更は彼らの責任回避の性質を象徴している。支持できる要素などどこにもない」と愛想を尽かしてしまったのは、自然なことである。仮にまた与党に返り咲き「あの時の発言はどうした」聞かれても、「与党に抗議するために野党として言っただけだ。今は関係ない。」と逃げる未来しか見えない。民進党は国の将来像を持たないが、国民は民進党の将来像を既に見透かしているのだ。
 両者は、「~として」という論法を多用することで、言動から生じた結果と距離をとろうとしている点が共通している。そして、どちらも信用の獲得という点で失敗している。

 肩書きや所属組織の名前を変えても、行動を起こした人間は同じである。選挙の時には、彼らは個人の名前を音害レベルで絶叫して議席にありつく。しかし、いざという時には「~として」という魔法の言葉で逃げてしまう。これでは政治に対する不信感が生まれて当然である。
 それでも、この言葉は支持者が支えている限りは有効な武器として作用する。結果を出し続けられる人間を支えるためには、多少の逃げ道を作っておいて、さらなる結果を作ってもらおうと期待することは、おかしいことではない。

 派閥に所属した時に注意したいのが、派閥の論理が持つ強力な磁力である。
 一個人では成し得ない大きな成果を、派閥はそのネットワーク、知識、資力、推進力によって生み出し、新たな名誉を付与する強力なエンジンとなっている。一個人がいかにズバ抜けた能力を有していようと、人間の集団が生み出す社会的生産物の前にはかなわないのだ。
 よって、派閥が生み出す政治経済的利益の恩恵を少しでも得ようとして多くの人間がそこに群がってくることになる。ちょっと握手しただけ、名刺を交換しただけ、写真を撮っただけ。それだけなのにそれを誇らしげに語り、自身を大きく見せようとすることの滑稽さを、人間は好んで演じているのである。
 彼らは、派閥の評価が高い時には散々利用するが、雲行きが怪しくなってくると手のひらを返し、無関係を装うようになる。あるいはそれができないとわかると、自分の政治的嗅覚の確かさを自慢し、「うまいこと泳ぎまわった自分」に酔うのである。何のことはない、自分が小物でずるい人間なのだだと自白しているだけなのに、認知的不協和によって、そこに自身の確かさを見出してしまうのである。
 しかし、派閥の核心は、そのような無責任なものではありえない。
追い風であろうと、逆風であろうと、そこから生ずる様々な利益・不利益そのすべてに、派閥の核心に身を置く者はさらされ続けなければならないのである。
 そして、この逆風の時こそ、人としての器量が試される。
 逆風であろうと自身の信念を持って行動を起こしたと断言できるならば、あるいはその過ちを素直に認め、次に向けて精進することを誓うならば、派閥内部の人間、そして外から見守ってきた支持者は、「次、また頑張れば良い!」と言うことができる。とにかく、「私が自分の足で歩いたのだ。そして転んだのだ。」と言える人間は強い。なぜなら、自分の歩き方の悪い部分を見直し、次の新しい挑戦を生み出すことができるからだ。安倍総理は、南スーダンのPKOや森友学園問題に際し、自身の言葉で「不測の時には、責任をとって総理を辞める」と断言できた。だからこそ、(例え政策そのものが支持されていないにしても)国民は今の政権に安堵感を覚えるのである。
 民進党は、この「私がやったのだ。でも、間違っていた。次はそれを直してまた頑張る!」ができない。民主党政権時代のことを国会で指摘されて「民進党は違う政党だ」と言ってしまったり、秘書のしたことは政治家の責任だといっていた人間が、自身の秘書のことになるとシラを切って「それとこれは別」と逃げてしまったりと、とにかく逃げる。これでは国民の信頼は得られまい。無責任な人間の集まりであるため、できることといえば小学生のような情緒的な権力への反発しかできず、政権攻撃(しかも、誰もが目を背けたくなるような稚拙な方法で)を繰り返して、結局返り討ちにあって終わってしまうのである。
 どちらの姿勢を支持するにせよ、派閥の磁力は、利益を引きつけると同時にに不利益をも引きつけるということを、ここでキチンと認識しておかなければならない。

 さて、ここまで「派閥」という言葉を乱用してきたが、本論において「派閥」とは、自民党の会派のみを指すものではない。ここでようやく私の定義を述べる。

「特定の思想・哲学の実現を推進する組織・共同体」これが本論における派閥である。
そしてそれに「所属する」とは、「派閥の論理に積極的かつ意図的に従い、そしてそれが対外的に明示されていること」である。


 冒頭で述べたが、派閥に所属することのメリットは、「自身に積極的にレッテルを貼る」ことで評価の予見可能性を高められることにある。

 日本人は、自身の意見をはっきりさせず、周りに同調することを良しとする傾向にあると言われる。その場の空気に支配されるのである。

「では、この空気を解釈するのは誰なのか?」

 問題はここだ。

 支配者は空気であるため、そこに人格は存在しない。人格がないということは、誰もが共通して認識することができる規範がないということを意味している。そしてそれが意味する究極のところは、「解釈者の都合によって、その者の存在の大きさによって」我々は不毛な正義を巡る争いに巻き込まれてしまうことである。

 例えば、ある領土問題を抱えている国の大統領と総理が首脳会談を行うとする。総理は「私の代で解決する」と自信満々に語るものだから、国民は期待する。しかし、経済協力と多少の政治的な口約束をしただけで首脳会談は終わってしまった。両首脳の笑顔とは裏腹に、国民の顔には苦笑いが浮かぶ。その後、この会談に評価を下す世論調査がメディアによって行われ、内閣支持率が60%から40%まで下がった。
 野党は現状を「期待の空気」から「失望の空気」へ変わったことを敏感に感じ取り、内閣打倒を画策する。「国民の期待に応えられなかった政権は、総辞職すべきだ」と。しかし、政権側も「話は今、始まったばかりなのだ!」と譲らない。

 どちらの主張にも、ある程度の説得力がある。
「成果を出せなかった者はクビ」、「今は成果まで遠いが、これからなのだ」と。
野党は国民の間にある空気を読み取って攻勢をかけ、与党は守勢にたたされたわけだが、どちらにしても、我々国民の声をしっかり反映しているとは言いがたいのではないだろうか。

「いやいや、成果を出すにはどうしたら良いのかを考えろよ!人を変えるのは手段の1つであって、それ自体が目的になった野党は要らないよ。与党も気をつけてよ」
これこそが、国民が国会に対して最も言いたい事なのではないだろうか。

 しかし、空気の解釈者である与野党は、自身に都合の良い解釈によって持論を展開してしまう。結局、国民を支配する空気がそのまま国会に届く事はなく、極端に拡大され、縮小され、捻じ曲げられ、全くの別物として作り直された形となって、その後の政争が続けられていくのである。

 積極的に派閥に所属するという選択は、与野党の極端な空気の解釈から自身を遠ざける事ができるというメリットを生む。自らの意見をハッキリとさせず、尚且つ空気に支配される日本人の傾向は、覇権争いに明け暮れる政治屋の恰好の餌となるのだという事に注意が必要だ。
 ここで、国民が自らが所属する派閥を政治屋に対してハッキリと言う事ができれば、政治屋はその声を無視する事が出来なくなる。空気の解釈によって生まれる不毛で稚拙な論戦から、国会を救う事ができるのではないだろうか。




中立者としての庶民論

問題意識の所在

 中央・地方の如何を問わず、選挙が行われる際には「無党派層の取り込み」が第一の課題として取り上げられるようになって久しい。新聞、雑誌、テレビ、果てはインターネットに至るまで、この層の取扱いを巡って議論や分析を戦わせ、政治家達も彼らの関心をどのようにして引きつけるか日々策を練っている状態である。
 しかし、この手の議論や分析と選挙結果との結びつきが、どの程度はっきりしているのかはほとんどわからない。「大体そうであるらしい」ということが、おぼろげながら見えているにすぎない。
 共産党支持者や労働組合、経済団体、宗教団体のように、団体の主義主張と支持政党が密接に結びついている場合ならばともかく、この無党派層というものは「経済を立て直してほしい」「福祉が心配だ」「年金が心配だ」というテーマだけははっきりしているが、「このテーマに対して政治家が何をすれば正解と言えるのか」については、全くの無頓着なのだ。
 論理的に考えても、それは明らかだ。「テーマは〇〇。策は〇〇。だから〇〇を支持する」といえるのならば、それは既に無党派層とは言えない。
よって、世の様々な専門家や評論家、政治家が、無党派層の行動についてあれこれ偉そうに講釈を垂れることとなるが、所詮は人間の解釈であるため、個人のしたいように解釈している状況になってしまう。
 「自民党は何となく嫌かも。適当に民進党に入れておこう」という程度の意思が、考えの浅い民進党や評論家の手にかかれば「国民が自民党にはっきりとNOを突きつけた形だ。」という解釈になってしまうのだ。そしてさらに飛躍していき、第一線の民進党議員達は「現政権は国民の声に誠実に耳を傾けよ」などと偉そうに説教まではじめてしまうのである。「はっきりとNO」なんて、そうそう何度もあるもんじゃないって。支持者には申し訳ないけど。

 無党派というくらいだから、その行動もどっち付かずであることが前提のはずなのに、いざ選挙が終わってしまうと「確固たる意思をもった支持者」にいつの間にか変身してしまっているのである。あれ?無党派はどこへ消えた?

 本論で私が提起したい議論は、自民党や民進党についてではなく、個別の政策についてでもなく、無党派層のこの華麗なる変身の例のように、「いつの間にか、確固たる意思を持った人間に変身させられてしまっている」という状況に対して、我々はどのような姿勢で臨むべきなのかを考えることにある。

日本人はレッテル貼りが大好き

よく言われることだが、この言葉についてよくよく考えると、「レッテル貼りとは、日本人は他人に対して個人的独善的な評価を一方的に与えている」ということを意味しているように思われる。評価者と被評価者のコミュニケーションが密に行われた上で、被評価者にしてもある程度はその評価を認めているならば「レッテル貼り」などという言葉が出てくるはずが無いからだ。
刑事裁判において被告が有罪か無罪かを決するためには詳細かつ緻密に事実と証拠を積み上げ、犯行が行われた際の当事者の心理状態にまで深く入り込み、事細やかな事実認定が行われた上で結審する。弁護人と検察側の激しい弁論のもと、最終的には裁判官が判断を下すのである。判断を下すためには、一時的な感情に判断を左右されること無く、全ての情報を冷静に天秤にかけなければならない。
報道番組は問題となる事件をセンセーショナルに報道する癖があるため、この裁判の結果に対して我々は「刑が重すぎる・軽すぎる」「被害者感情を軽視している」などと無責任に言いがちだが、それは「裁判に立たされているのは極悪人であり、何を言おうと言い訳に過ぎない」という「レッテル貼り」を無意識に行っていることの表れである。「推定無罪」などという言葉は、露程も出て来ないのだ。
今、森友学園問題がテレビ・ラジオ・新聞・雑誌を連日賑わせている。この学園をめぐる不明瞭な土地の売買や政治家達との関係は問題となってしかるべきだが、教育方針やその異常性にまでマスコミが偉そうに介入しだしたのは風評被害以外の何者でもない。
確かに、この学園の教育方針や教育風景は我々にとって異様なものに移る。国粋主義を煽るその教育姿勢は、普段我々が常日頃批判している北朝鮮のそれと重なって見えるところがあるため、「異常だ!!」と感情的に批判したくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、教育方針の異常性は今回の問題点ではない。そもそも、この学園は私立であるため、我々がとやかくいう筋合いは無い(政治家との不適切な関係性があったのであればまた話しは変わるだろうが、当の政治家達はそれを否定しているし、立証もされていない。断定する決め手が無い以上は、批判を控えるべきだ。ただし、追求はすべきだ。)。それが問題なら、仏教やキリスト教が建学の精神になっている私立大学も問題視されなければならない。
にもかかわらず、既に国会議事堂周辺やネット上では断定できないことをあたかも全て事実であるかのようにあげつらい、政治家達を断罪する動きが出て来ている。人が人を裁くには、よほどの注意が必要であるにもかかわらず、こと政権批判の場面となると週刊誌の切り抜き程度で「責任をとって辞任を!!」と野党や政権に批判的な国民は容易く言ってしまうのだ。裁判の例と比較して冷静に物事を見てみると、いかに我々が性急に結論を出したがっているかがよくわかる。
そこに議論を通じた事実の追求、真相の究明という一番肝心な姿勢はどこにも見当たらない。
これをレッテル貼りと言わずして、何と言えば良いのだろうか。

日本人は、イエスとノーをはっきりいうことができない優柔不断な性格をしているにもかかわらず、他人を評価するということに関しては、いきなり自身のものの見方に自信を持ってしまうという摩訶不思議な現象が時折見られるのである(←そしてこれもレッテル貼りの一例といえるだろう)。

複雑な評価の網の中で

 他者との対話の欠如と時に対話の拒絶というレベルにまで達する会話軽視こそが「レッテル貼り」の真意であることを説いた。その背景には、自らの信念に対する絶対的な無謬性の確信、巨悪と戦う自己という圧倒的な自己陶酔、誤りを認めることへのエゴイズム崩壊の危機感に対する認知的不協和が複雑に絡み合っている。
 北朝鮮や韓国が日本を口撃するときのレトリックにも似ている。彼らは、日本が歴史認識を改めず、日本の主張は全てにおいて不当で、兄である韓民族に対する不敬を認めようともしない、それに振り回されている我々は常に被害者であり、日本は悪の権化であるという「レッテル貼り」を行う。
 彼らを批判する日本のネトウヨとされる方々も同じである。韓国で高速鉄道が事故を起こすと「劣等民族だから」「彼らに文明は早い」などと罵声を浴びせ、恥ずかしめを与え、中国との関係に関しては「はやく吸収されてしまえ」などと口走る者さえいる。ネトウヨの方々は、日本の先人達が「朝鮮は何としてでも独立させなければ、日本の存続にもかかわる」と不退転の覚悟で臨んだ外交姿勢に唾をはきかけてしまっているのである。逆に、日本側が彼らとの関係構築を行うに際して研究が不足しているなどとは夢にも思わないのだ。
 
 何やら批判をつらつらと挙げてばかりいるようだが、この双方の「レッテル貼り合戦」に巻き込まれないようにする生き方を見つけようというのが私の議論だ。
 現代は、皆がそれぞれ自分の正義を振りかざしてその正当性をぶつけ合っているというのが現状だ。そして庶民は常にそこに巻き込まれながら生きているのである。

 この現実に対して、我々が取りうる姿勢は以下の4つだ。

① どこかの派閥に属し、構成員として生きる
② 派閥を利用できるよう新たな派閥を作る(毒を以て、毒を制す)
③ その時の支配者に形だけあわせる
④ 全て拒否する


次回以降、この4つの生き方に対する論を更に少しずつ深めて行く。




兎と砂とコーヒーの国〜鳥取放浪記  鳥取応援写真集

鳥取地震で被災された鳥取県民の皆様、お見舞い申し上げます。

そして鳥取県民以外の皆さんへ。
鳥取って、よく陰が薄いだの何だのと言われ放題の地域ですが、行ってみるとため息が出る程素晴らしい土地です。
今回は小難しい理屈は抜きにして、私が夏に旅した鳥取をご紹介します。

※ここで公開する写真は、2015年に撮影されたものです。

IMG_2602.jpg
出発進行〜!!









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オススメ!!世界をおっきく小さくする読書

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