「その言葉、用法容量を守ってお使いください!」超単語TOP10

「苦労は買ってでもしろ」
昔の人はこう言った。その苦労が自分への投資になるなら買ってもいい。しかし考えてみると、苦労には一定の時間の経過が伴う。その時間経過の結果、新しいスキルが身に付いているならまだしも、ただ時間がたったという実感が湧くに止まっているのが実情だ。なぜなら、その時間の経過は自分だけに起っているのではなく、加速し続ける技術革新の中にも起っているからだ。苦労が終わった時には、とっくにその苦労は根本から解決されている。

「説明責任」
説明を求める側は、説明を理解できる頭を作ってからものを言え。説明する側は「話せばわかる」と言って暗殺された要人がかつていたことを忘れるな。

「(職場での)頑張ってるな!」
ありがとうございます。しかし私にはもったいないお言葉でございます。なんのなんの、それに見合ったお金さえいただければ手前どもはそれで結構でございます。いえいえ、言葉は言霊と申しまして、いつしか人知の及ばない力をもつもの。それに比べてお金は渡せばそれで終わる物。容易に使うのは危険な物でございます。

「人生は長い」
どこで、誰が誰に、どういうふうに言うかで意味合いが変わるマジックワード。年寄りが言う場合、それは基本的に「慰め」か「我慢の強要」のどちらか。後者の場合、高齢者ばかりの日本社会では積もり積もって若者に多大な精神的疲労を与える可能性があるのだが、「自分も昔はそうやって言われて来た(経済成長まっただ中で、しかも高齢者なんてそもそも少なかった時代にいたくせに)」という思考停止全開の論理で攻めてくる奴が多いので厄介。

「最近の若者は〜(類:近頃の若いもんは〜)」
「最近の若者は〜」という言葉は、大抵ネガティブな意味で使われる、主に高齢者が努力せずして若者を貶めることができる便利な言葉。しかし、言う側も若い頃は言われる側だったので「ようやく俺もこの言葉を口にできる!!」と思っている輩がいることも事実。「時代は繰り返される」で表される象徴的単語。

「老害」
時代の変化を受け入れられず、古い価値観に固執する高齢者をバカにした言葉。大丈夫、安心しろ若人よ。お前もいずれは同じになる。

「レッテル貼り」
「最近の若者は〜」「老害」といったように、人を特定のカテゴリーに一方的に当てはめる行為のこと。人間は物事の判断のために、自身の価値観の中で他人をカテゴライズするものだが、「レッテル貼り」と言った場合、そのカテゴライズが社会に広く伝染し始めている事象までを意識していることに注意が要る。

「失敗」
意図した結果を目指して挑戦したけれども、残念ながら叶わなかった場合に使用される言葉。日本人はこの失敗にやたら厳しい。八百万信仰のせいで、自分も万能の神様の一部であると同一視しているのだろうか?八百万もいるのだから、失敗の神様もいそうなものだが…。

「SNS」
すっごい・なまら・セクシー(←お前はDAIGOか)

 「空気」
 日本人がやたらと気にするもの。その昔、KY(空気読めない)という流行語が出来上がってしまった程、日本人は場の空気を気にする。人間は空気が無ければ死んでしまうが、ここでいう空気に従えない者は変わり者として認定されてしまうので、社会的に死ぬ可能性が高い。
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そのとき、言いようの無い虚脱感が全身を襲った〜仕事がバカバカしいと感じるとき

例えば、です。

車を買い替えることにしました。
当然、車種、年式、燃費、値段、ローンの組み方、仕様と様々なことを確認し、必要とあればこちらの要望を伝え、何がどこまで可能なのかを見極めようとすることは消費者として当然の行いのはずです。

確かに時間はかかります。
しかし、良い買い物をするためにはこれも必要なこと。そもそもスーパーで卵を買うのではないのですから、その金額、規模からいっても店頭での時間がかかることはやむを得ないことです。

そしてふと時計を見ると、1時間が経過していました。
この時点で要望は伝えきっており、確認したいこともあらかた確認しました。
あとは数日後に見積書が送られてくるのを待つだけです。

 その帰り道、連れから突然「時間かかりすぎじゃないか?」と言われてしまったのです。
 私は、事前に確認事項について連れと確認していましたし、今の車に乗っていて起ったトラブルをまとめた上で、店頭の営業マンに最適な提案をしてもらえるようにしただけです。このトラブルについても、連れはよく理解しているはずでした。

 にもかかわらず、連れは突然こうしてはしごを外すようなことをするのです。

お金を無駄にしないよう交渉し努力した結果、「時間が長い」の一言で終わってしまい、他の一切の評価はありませんでした。

すると突然、私の全身を支えていた力が一気に消えてなくなりました。倒れはしませんでしたが、まるでトランポリンのし過ぎで平衡感覚が麻痺してしまったかのような感覚。トランポリンをした後、地面に降りてジャンプしようとすると思うように跳べなくてバランスを崩すことってありますよね?これに近い感覚です。

この車の話しはフィクションですが、これと同じような出来事が最近私に起ったわけです。
担当として、賢い交渉をしようと意気込んでいました。事前に準備をし、資料をまとめ、これまでの問題点を絞り、打ち合わせには上役にも入ってもらい、そして交渉に臨む。過去、問題に直面したときには「今後はこういった点も言っていかなきゃな」と、誰もが言っていたにもかかわらず、いざ交渉が終わると「話しが長い(by 役員ではないが上司の上司らへんの人)」で終了。長いと言っても、1時間しかたっていない。

ふざけんな。あんまりだ。
今までの私の努力は何だったんだ!!??

 多少のフォローもなく駄目出しだけ受けて解放。

悔しくて、悔しくて、目頭が熱くなりました。
そして直後には、言葉にできない虚脱感が全身を襲ったのです。

「頑張った自分がバカバカしい。私も会社も、さんざん苦しめられた問題があって、それを解決して明日につなげよう。業務を最適化させよう。そう思っていたのに、一切評価が与えられなかった。」

私は、仕事に一生懸命に取り組むことは人生において必要なことであると考えています。今のところ、思っています。
部下や後輩をお持ちの皆さん、ビジネスはビジネスと割り切らなければならない場面もあるでしょうけれども、フォローだけはしっかりしましょう。「耐えることも大切!!」なんてのは、所詮我慢させる側の欺瞞です。

札幌からハノイへ ベトナム日記〜挨拶編②

 基本的な挨拶を覚えた私は、職場のベトナム人に意を決して話しかけてみた。基本的に、奥手(?)というか何と言うか、何の脈絡も無く人に話しかけることが苦手な私は、これだけでもなかなかの行動。

私:Xin chào!Tôi tên là 〇〇!!Hôm nay trời thế nào?
こんにちは、私の名前は〇〇です!!今日の天気はいかがですか?

 予想通り私のベトナム語は通じない。
 しかし、ここでめげるわけにはいかない!!外国語の学び初めなんて、通じないのが普通だ。

私:Xin chào!Tôi tên là 〇〇!!Hôm nay trời thế nào?
 改めて同じ言葉を繰り出す。

 それでもやっぱり通じない。
 何と言うか、かんというか、相手の表情と頭上には無数の「?」が思い切り羽を広げてくるくると飛び回っているのが見えたような気がする。3回目を言い終わる頃には、私の心は早速もげそうになっていた。

 自分でははっきり話している自信がある。
CDも繰り返し聞いたし、一応シャドーイングも行った。
 でも…
 通じない!!!

 あとは気力との勝負だと言わんばかりに、私は数少ない私のベトナム語をぶつけ続け、何とか理解してもらおうと言葉を出し続けた。

 すると、その場にいたベトナム人の一人が私の言葉を復唱したのだ!!
 一瞬、何を言っているのかが分からなかったが、要するに「お前はこう言ったんだよな?」と確認しているのがすぐに分かった。

 通じるって素晴らしい!!

 Yes!!

何故か英語で返した私は、この小さな一歩が会社にとっての大きな一歩につながるのであろうことが理解で来た。サラリーマン万歳。

ベトナム人:~~~~~~

私:??????

今度は私が聞き取れなかった。まるで意味不明。

で、何度か聞き返してみたものの、やっぱり何を言っているのか分からなかったので互いに話しを進めることができず膠着状態に陥ってしまった。

そこで、私は「お昼 ベトナム語 話す OK?」と聞いてみた。
これは相手にも通じたようだ。こうすることで、腰を落ち着けてゆっくりとコミュニケーションをとることができるようになる。相手の言っていることは相変わらず無視した形になってしまっているが、いずれにしてもわからないのだから仕方がない。

ベトナム人:OK!!
私:よし!!

日本語は文法が多少ルーズでも通じてしまう上に日本人でも扱いが難しい敬語があるため、日本語の経験が浅い外国人にとって、理解することが難しい言語であることは間違いない(しかし、日本語が世界一難しいみたいな意見は俗説だと思うけれど)。
そのため、文章で意思疎通を図るのではなく断片的な単語を並べて言いたいことを伝えた方が理解が深まりやすいということがよくあるのである。

こうして、我々は深い相互理解への第一歩を踏み出したのであった。

〈単語〉
Hôm nay  今日
trời     天気
thế nào   どのような(に)?

日本に暮らすベトナム人には、娯楽が足りない!!

 職場にベトナム人が来て働くようになってから早半年。彼らとの交流の機会も大分増えてきました。

 例えば、私が住む北海道には6月に四国由来のよさこいソーラン祭りという大規模なお祭りがあるのですが、これに彼らを連れて行ってあげたり、職場の飲み会があるときには彼らを送迎してあげたりといった感じです。

 「そこまでする必要、ある?」

 何て声も聞こえてきそうですが、異国の地に来て働き、生計をたてるなんてことは我々の想像を遥かに絶する精神力を要するわけで、「猫の手も借りたい!!」という気持ちで彼らを迎え入れている我々日本サイドとしては、彼らが日本になじめるようこれらくのことをするのは当たり前かな…と思います。

 さて、日本全国で働くベトナム人が急増しているわけですが、ここで「外国人労働者を迎え入れる用意が足りない日本像」を改めて指摘したいと思います。

 それは、国の制度でも日本人の外国語人材の問題でも、まして給料や休日の問題でもなく…

日本には、彼らが来て暇をつぶせるだけの娯楽がまだまだ少ない問題

です。

 私が暮らす町にも働くベトナム人はいるのですが、彼らが家で騒ぐという問題がご近所問題としてクローズアップされるようになってきました。
 なんでも、家で大きな声でベトナムの歌を歌っているのだとか。

 彼らにしてみれば日本には余暇を過ごすための娯楽が少ないといえるでしょう。どこに行っても日本語だらけで、音楽や映画、カラオケは全て日本人向け。当たり前と言っちゃあ当たり前のことですが、そこで彼らが楽しめることって、何もないですよね?日本語の基礎くらいは学んでいるとはいっても、日本の文化を楽しむためにはそれ以上のレベルの語学や教養が必要とされますし、それを望んで日本に来ているわけでもないですし…。

 とくれば、彼らに残されたできることといえばインターネットで自国のドラマや映画を視聴する、あとは近所の仲間と集まって歌を歌う、公園で遊ぶくらいのものではないでしょうか。都市圏ならまだしも、これが地方となるとより問題は深刻で、遠くに行くための足がないという事態にまでなってしまいます。また楽しめる娯楽が少ないという問題がある一方で、金を稼ぎに遠い異国の地に来ている彼らにとって、お金がかかる遊びは何よりの敵というべきものでもあります。よって、彼らの行動範囲は自宅かその近隣という非常に狭い領域に制限されがちです。

 そんな状態ですから、家で歌を歌ってそれが近所問題に発展していくのはある意味では必然のことなのかもしれません。我々にはカラオケボックスというものがありますが、彼らにはそうした便利ツールが無いのです。そしてそれが続くことで、外国人労働者に対する「マナーが悪い」「習慣の違いがストレスになる」「うるさい」といった負の感情を発生させる原因になり、不必要な摩擦が生まれることになるのではないでしょうか。
 また、同じ境遇の同じ町に暮らす仲間同士で公園をはじめとした集合可能な場所に集まり始めた結果、逆に日本人はそれを様々な勘違いや不理解によって敬遠するようになるのです。例えば、着る服のデザインが奇抜(日本人であれば、ヤンキーみたいな人しか着ないような物を着ている)、声がやたら大きい、集団であるといった外見的特徴がそれです。
 こうして、平和だった日本の地方都市の中に「治安のいい場所」と「治安の悪い(実際にはそうではないのだけれど)場所」が生まれてしまうというわけです。

 日本人であれば享受できる娯楽が、彼らには存在しない。
 彼らには楽しめる場所(かつ、お金がかからない場所)が少ない。

 こうした状況を考慮すれば、今後日本が外国人労働者(特に高度人材ではなく、工場では働くような人々)を受け入れて人手不足を補っていくためには、可及的速やかに安い娯楽を整備していくことが必要なのではないでしょうか。彼らのためのカラオケボックスがあれば、わざわざ家で騒ぐなんてことも無くなるでしょうし、「他に場所があるのだから、集合住宅では静かにしなければならない」というにルール付をすることも可能になります。働く場所と自分を発散させる場所、休める場所がキチンとそれぞれあって、初めて精神的に安定した生活が営めるという理屈は、日本人でも同じでしょう。
「働け。家では静かにしてろ。遊ぶ場所は近所の公園くらいだよ。でもやり過ぎると日本人に敬遠されるよ。」なんて、幾らなんでも身勝手な論理ではないでしょうか。

 このブログをご覧になったカラオケ屋の皆さん(特に地方の)には、是非ともベトナムの人気歌手の歌を取り入れて下さいますようお願い申し上げます。

 

札幌からハノイへ ベトナム日記〜挨拶編①

ベトナム人に話しかけないと、私のミッションはそもそもスタートしない!!

これは職場で働く彼らのためにやっていることだから、趣味でやる語学学習とは訳が違う。相手を常に意識しなければならないのは当然といえば当然のことだった。

まず、挨拶を覚えた。

 Xin chào!(シン チャオ) こんにちは!

 うむ、これは簡単だ。Chàoはどこでも使える挨拶表現で、これにXinを加えると丁寧表現になるらしい。なんと分かりやすい。ベトナム語は、発音がえげつない代わりに文法は極めて簡単なのだ。

 では、自己紹介はなんというのだろうか。

Tôi tên là Takeo.(トイ テン ラ たけお) 私の名前はたけおです。

Tôiは私、tênは名前、làはです(英語のbe動詞のようなものだろうか)である。この発音はローマ字読みでも殆ど通じるので、誰でも真似をすることができる。
このふたつのフレーズを覚えれば、つかみはOK!!(多分)

他に、朝の挨拶「おはようございます」という言葉も覚えた。

Chào buổi sáng.(チャオ ブオイ シャン)

※buổiをbuồiと言い間違えると、男性の股間を表す単語になってしまうので注意が必要だ!!私はこの発音の違いがハッキリわかっていなかったため、社内で

チ○ポ チ○ポ チ○ポ チ○ポ 

と、堂々と大声で話していたことさえある。


 当のベトナムの方に指摘してもらえたから良かったものの、私の平凡なサラリーマン人生が唐突に終わりをむかえるぎりぎりの状態にあったことになるわけで、まさしく「知らなかった」では済まされない事態だったのである。

 皆さんも、ベトナム語の発音には特に注意を払いましょう。

札幌からハノイへ ベトナム日記〜ある日隣にベトナム人がきたらどうなるの?②

発音を巡る問題

 こうして、誰に知られることも無くひっそりとベトナム語マスターへの道を歩み始めた私は、半歩もすすまないうちに早速大きな壁にぶちあたってしまう。

はて?どうやってベトナム語を学べば良いのか?今いるベトナム人の皆さんが日本人と仲良くなるためにはどうしたら良いのだろう?

なにより問題なのはアジア言語につきもののえげつない文字と発音である

まずは文字だ。
ベトナム語には、日本人が「a」と認識する表記だけでもa、ă、âの3つがある。これはそれぞれ「あー→」「あー↗」「うお↗」となる。特に最後のâの発音は日本語には存在しないため、気持ち近い音をとって「うお」としたが、これは間違っている。個人的には、お腹を殴られたときに思わずでる雄叫びめいたものに似ていると思う。しかし、無いものは無いので素直にâとしておこう。

もうこの段階で既にベトナム語の習得なんて夢のまた夢なのに、さらに追い打ちをかけるような文字が我々の目の前に迫ってくる。

・ DとĐ     :「ぜ」と「でぃ」
・ EとÊ       :「えあ」と「え」
・ OとÔとƠ   :「お(口の奥の方で下を丸めた感じ)」と「お」と「うお→」
・ UとƯ     :「う(口を丸める)」と「う(口を平に)」

 ざっとこんな感じなのだが、ベトナム語を教えてくれている人の話しによると、ベトナム人でも聞いただけでは違いが分からない表記もあるのだという。

 それが

・ TRとCH
 
 これはどちらも「ちょ」というらしい。TRで「ちょ」だなんて、何かの間違いにしか思えないのだが、これはこれで間違いないらしい。いずれにせよこれで覚えるしか無い。
 それにしても、こちらが「aがいっぱいあるけど、それぞれ何が違うの?」と質問すると、ベトナム人は「こんなの全然違うよ〜!!」と言ってくるのだから、ベトナム語というのは本当に日本人泣かせな言語である。

 次に声調だ。

これは未だに理解し難い存在だ。
大体、中国語の4つの声調を聞き分けるだけでも困難極まりないのに、それをさらに6つに分けてしまうという狂気じみたことをしている。教科書を見ながら聞き比べしている分には何となく分かる気もしてくるのだが、何も見ないで聞くともうお手上げ状態である。

こういうときによく出てくる「ma」の音を例にとると、ベトナム語の声調は下記のようになる。

・ ma, mà, mả, mã, má, mạ

この音を線で表現するとそれぞれ「→」「↘」「↘の最後に詰まった感じ」「〜」「っ!」のような感じになる。これも文字情報では表現しきれないので、各自で調べてほしいのだが、特に「`」「 ̉」の違いは全く分からない。購入した教科書に付いていたCDの音量を思い切り大きくして聞いてみたところ、ようやく「嗚咽が詰まった感じ??」とおぼろげながら認識できた程度に過ぎなかった。

これをマスターしなければ先には進めないのがベトナム語の恐ろしいところなのだが、かといって、マスターするのを待っていたらいつまでたっても目の前にいるベトナム人の立場によりそって問題を解決することができない。ここで、ベトナム語ができないのにベトナム語でベトナム人とコンタクトをとるという難しい選択をするはめになってしまった。

札幌からハノイへ ベトナム日記〜とあるサラリーマンのベトナムへの旅路

少子高齢化という深刻な社会情勢の下、労働力不足を補うために日本のあちらこちらで外国人を雇う動きが活発化しています。
 なかでも、今最もその数を伸ばしているのがベトナム人。
 日本で働く外国人の数は2016年に過去最高の108万人となりましたが、そのうちベトナム人が前年比56.4%増と最大の伸びになったそうです。(日本経済新聞)

 はいはい、私の職場にも来ましたベトナム人。

金を稼ぐためとはいえ、遠い異国の地に来て生活しながら働こうというのですから、並大抵のことではありません。
職場に来た当初は、日本人側も笑顔で彼らを迎え入れ、まぁ、半年以上たったいまでも仲良くやっているので、基本的にはとりあえず上手くいっている感じ。

しかし、言葉が通じない・生活習慣が違うが故の問題もちらほら。

最大の問題、それは…

「日本に一方的にあわせろ。」という、日本サイドに必要があってベトナム人受け入れたにもかかわらず、彼らのことを理解しようとしない傲慢な態度です。

これに危機感を抱いた上層部は、アジアloveを貫くことで社内的に有名な私に「ベトナム語を学び、北海道商事(仮名)を彼らが働きやすい環境にせよ!!」という指令が出ました
学生時代は台湾で1ヶ月間中国語の研修を受けた私。社会人になってから旅行先と言えばもっぱら上海、ラオス、マレーシア、シンガポールと東南アジア地域に集中していた私。次は夏休みにでも韓国に行こうかと悩んでいた私。
そうだ!!会社のミッションと旅行の準備を兼ねることができる貴重な機会ではないか!!そう思った私。

イエッサーーー!!!

声高らかに一点の曇りも無く宣言しました。これは日本全体に通じる、誇り高き崇高な任務となるだろう。

かくして、私のベトナム語とベトナムへの旅は始まったのであります。

※今回から不定期で私のベトナム語奮闘記をご紹介します。私と同じような経緯でベトナム語を学ぶことになった皆様からの声をお待ちしております。

社会の視点 法案審議を尽くさず強行採決に!?これは野党の失敗というべきだろう

私の希望として、日本維新の会・足立康史衆議院議員には、民進党をはじめとした野党に対して「審議が尽くされているとは、どういう状況なのか?」と、国会で正していただきたいと思う。それも、民進党が民主党として政権についていた時代の"強行裁決"と比較して、なにがどのように違うのか、きちんと比較した上で。





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中立者としての庶民論②

 各派閥に所属しながらその一員として活躍する場合。

 これは、支持する政党や政治団体に所属し、そこの一員として特定のメッセージを発信し、その内容の実現を目指すことを言う。本論は、庶民が特定の主張の中で右往左往させられることを個人の危機とし、そこから脱する手立てを議論するものであるが、これは意識的にその中に身を置くことを目指すため、その主旨からは外れてしまう。しかし、日本人はレッテル貼りを好み、それは他者との対話を行わないことに起因する思考法であるとする私の立場では、敢えて特定の主張の中に身を置くことで、それ以外の主張の中に勝手に分類されることがなくなるというメリットがある。

 また、特定の派閥に所属しながら特定の行動をとった場合、それが派閥が外部から受けている評価と解釈の文脈でもってその行動が理解される、というのがある。あえて自身の労力で結果に対する釈明をしなくても、社会が派閥の論理を援用して評価を下すのだ。言い換えれば、あくまでも個々人の判断としてとられたはずの行動が、決してそうとは見なされなくなるということでもある。

この、「~として」という論法は、日常生活のあらゆる場所で見られる。いずれも、自身の過去の言動から生じた結果に対して距離を置き、事後的に評価を付け加える隙を作ろうとする時に多用される。

 時の内閣総理大臣が党の総裁として改憲の話をしたのか、それともあくまでも総理大臣として改憲の話をしたのかでゴールデンウィーク明けはもめたが、これも同じことである。あるいは、民進党は民主党から党名を変更することで旧党名の負のイメージを払拭することを目指したが、結局それは失敗に終わってしまった。なぜなら、看板が変わっても中身が変わらなかったことは言うまでもないが、それによって「都合が悪いものはなりふり構わずなかったことにしようとする、究極の無責任」が形となって表れたにすぎないということがはっきりしてしまったからである。民進党が、民主党時代のことを聞かれて「うちとは違う党だ」詭弁を弄した瞬間、すべての期待は瓦礫となって崩れてしまった。多くの国民は、「党名が変わっても人は変わらない。そして、党名の変更は彼らの責任回避の性質を象徴している。支持できる要素などどこにもない」と愛想を尽かしてしまったのは、自然なことである。仮にまた与党に返り咲き「あの時の発言はどうした」聞かれても、「与党に抗議するために野党として言っただけだ。今は関係ない。」と逃げる未来しか見えない。民進党は国の将来像を持たないが、国民は民進党の将来像を既に見透かしているのだ。
 両者は、「~として」という論法を多用することで、言動から生じた結果と距離をとろうとしている点が共通している。そして、どちらも信用の獲得という点で失敗している。

 肩書きや所属組織の名前を変えても、行動を起こした人間は同じである。選挙の時には、彼らは個人の名前を音害レベルで絶叫して議席にありつく。しかし、いざという時には「~として」という魔法の言葉で逃げてしまう。これでは政治に対する不信感が生まれて当然である。
 それでも、この言葉は支持者が支えている限りは有効な武器として作用する。結果を出し続けられる人間を支えるためには、多少の逃げ道を作っておいて、さらなる結果を作ってもらおうと期待することは、おかしいことではない。

 派閥に所属した時に注意したいのが、派閥の論理が持つ強力な磁力である。
 一個人では成し得ない大きな成果を、派閥はそのネットワーク、知識、資力、推進力によって生み出し、新たな名誉を付与する強力なエンジンとなっている。一個人がいかにズバ抜けた能力を有していようと、人間の集団が生み出す社会的生産物の前にはかなわないのだ。
 よって、派閥が生み出す政治経済的利益の恩恵を少しでも得ようとして多くの人間がそこに群がってくることになる。ちょっと握手しただけ、名刺を交換しただけ、写真を撮っただけ。それだけなのにそれを誇らしげに語り、自身を大きく見せようとすることの滑稽さを、人間は好んで演じているのである。
 彼らは、派閥の評価が高い時には散々利用するが、雲行きが怪しくなってくると手のひらを返し、無関係を装うようになる。あるいはそれができないとわかると、自分の政治的嗅覚の確かさを自慢し、「うまいこと泳ぎまわった自分」に酔うのである。何のことはない、自分が小物でずるい人間なのだだと自白しているだけなのに、認知的不協和によって、そこに自身の確かさを見出してしまうのである。
 しかし、派閥の核心は、そのような無責任なものではありえない。
追い風であろうと、逆風であろうと、そこから生ずる様々な利益・不利益そのすべてに、派閥の核心に身を置く者はさらされ続けなければならないのである。
 そして、この逆風の時こそ、人としての器量が試される。
 逆風であろうと自身の信念を持って行動を起こしたと断言できるならば、あるいはその過ちを素直に認め、次に向けて精進することを誓うならば、派閥内部の人間、そして外から見守ってきた支持者は、「次、また頑張れば良い!」と言うことができる。とにかく、「私が自分の足で歩いたのだ。そして転んだのだ。」と言える人間は強い。なぜなら、自分の歩き方の悪い部分を見直し、次の新しい挑戦を生み出すことができるからだ。安倍総理は、南スーダンのPKOや森友学園問題に際し、自身の言葉で「不測の時には、責任をとって総理を辞める」と断言できた。だからこそ、(例え政策そのものが支持されていないにしても)国民は今の政権に安堵感を覚えるのである。
 民進党は、この「私がやったのだ。でも、間違っていた。次はそれを直してまた頑張る!」ができない。民主党政権時代のことを国会で指摘されて「民進党は違う政党だ」と言ってしまったり、秘書のしたことは政治家の責任だといっていた人間が、自身の秘書のことになるとシラを切って「それとこれは別」と逃げてしまったりと、とにかく逃げる。これでは国民の信頼は得られまい。無責任な人間の集まりであるため、できることといえば小学生のような情緒的な権力への反発しかできず、政権攻撃(しかも、誰もが目を背けたくなるような稚拙な方法で)を繰り返して、結局返り討ちにあって終わってしまうのである。
 どちらの姿勢を支持するにせよ、派閥の磁力は、利益を引きつけると同時にに不利益をも引きつけるということを、ここでキチンと認識しておかなければならない。

 さて、ここまで「派閥」という言葉を乱用してきたが、本論において「派閥」とは、自民党の会派のみを指すものではない。ここでようやく私の定義を述べる。

「特定の思想・哲学の実現を推進する組織・共同体」これが本論における派閥である。
そしてそれに「所属する」とは、「派閥の論理に積極的かつ意図的に従い、そしてそれが対外的に明示されていること」である。


 冒頭で述べたが、派閥に所属することのメリットは、「自身に積極的にレッテルを貼る」ことで評価の予見可能性を高められることにある。

 日本人は、自身の意見をはっきりさせず、周りに同調することを良しとする傾向にあると言われる。その場の空気に支配されるのである。

「では、この空気を解釈するのは誰なのか?」

 問題はここだ。

 支配者は空気であるため、そこに人格は存在しない。人格がないということは、誰もが共通して認識することができる規範がないということを意味している。そしてそれが意味する究極のところは、「解釈者の都合によって、その者の存在の大きさによって」我々は不毛な正義を巡る争いに巻き込まれてしまうことである。

 例えば、ある領土問題を抱えている国の大統領と総理が首脳会談を行うとする。総理は「私の代で解決する」と自信満々に語るものだから、国民は期待する。しかし、経済協力と多少の政治的な口約束をしただけで首脳会談は終わってしまった。両首脳の笑顔とは裏腹に、国民の顔には苦笑いが浮かぶ。その後、この会談に評価を下す世論調査がメディアによって行われ、内閣支持率が60%から40%まで下がった。
 野党は現状を「期待の空気」から「失望の空気」へ変わったことを敏感に感じ取り、内閣打倒を画策する。「国民の期待に応えられなかった政権は、総辞職すべきだ」と。しかし、政権側も「話は今、始まったばかりなのだ!」と譲らない。

 どちらの主張にも、ある程度の説得力がある。
「成果を出せなかった者はクビ」、「今は成果まで遠いが、これからなのだ」と。
野党は国民の間にある空気を読み取って攻勢をかけ、与党は守勢にたたされたわけだが、どちらにしても、我々国民の声をしっかり反映しているとは言いがたいのではないだろうか。

「いやいや、成果を出すにはどうしたら良いのかを考えろよ!人を変えるのは手段の1つであって、それ自体が目的になった野党は要らないよ。与党も気をつけてよ」
これこそが、国民が国会に対して最も言いたい事なのではないだろうか。

 しかし、空気の解釈者である与野党は、自身に都合の良い解釈によって持論を展開してしまう。結局、国民を支配する空気がそのまま国会に届く事はなく、極端に拡大され、縮小され、捻じ曲げられ、全くの別物として作り直された形となって、その後の政争が続けられていくのである。

 積極的に派閥に所属するという選択は、与野党の極端な空気の解釈から自身を遠ざける事ができるというメリットを生む。自らの意見をハッキリとさせず、尚且つ空気に支配される日本人の傾向は、覇権争いに明け暮れる政治屋の恰好の餌となるのだという事に注意が必要だ。
 ここで、国民が自らが所属する派閥を政治屋に対してハッキリと言う事ができれば、政治屋はその声を無視する事が出来なくなる。空気の解釈によって生まれる不毛で稚拙な論戦から、国会を救う事ができるのではないだろうか。




ゴールデンウィークドライブの決め手! 支笏湖xアイヌxあげいも

 新千歳空港から車で約40分。千歳市街を通り抜け、千歳川にそった山中の道を行くと、やがて見えてくるのが日本一の透明度を誇る支笏湖である。

 最大水深は約360m、平均水深は約265mと深く、この数字は秋田県の田沢湖に次いで2番目である
(出典:千歳市公式ホームページ)。この深さの影響で、冬でも湖の中に温かさが残るため、日本最北の不凍湖としても有名である。

支笏湖 のコピー
google mapより


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オススメ!!世界をおっきく小さくする読書

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閲覧いただき、ありがとうございます。

当ブログは、「人生を味わい深いものにするためには、どんな情報や発想、知識が求められるのか」という疑問を元に、仕事、時事問題、国内外の旅行、教養といった分野からヒントをもらっていこうというのが主旨となっています。
また、英語での日本情報発信(主に私の英語の練習のためですけど)も行っていますので、「この英語、変じゃない?」という指摘も送って下さると助かります。

他に、仕事や旅行、生活を充実させるためのちょっとした情報もアップしていくので、どうぞ楽しんでいって下さい。

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