札幌からハノイへ ベトナム日記〜挨拶編①

ベトナム人に話しかけないと、私のミッションはそもそもスタートしない!!

これは職場で働く彼らのためにやっていることだから、趣味でやる語学学習とは訳が違う。相手を常に意識しなければならないのは当然といえば当然のことだった。

まず、挨拶を覚えた。

 Xin chào!(シン チャオ) こんにちは!

 うむ、これは簡単だ。Chàoはどこでも使える挨拶表現で、これにXinを加えると丁寧表現になるらしい。なんと分かりやすい。ベトナム語は、発音がえげつない代わりに文法は極めて簡単なのだ。

 では、自己紹介はなんというのだろうか。

Tôi tên là Takeo.(トイ テン ラ たけお) 私の名前はたけおです。

Tôiは私、tênは名前、làはです(英語のbe動詞のようなものだろうか)である。この発音はローマ字読みでも殆ど通じるので、誰でも真似をすることができる。
このふたつのフレーズを覚えれば、つかみはOK!!(多分)

他に、朝の挨拶「おはようございます」という言葉も覚えた。

Chào buổi sáng.(チャオ ブオイ シャン)

※buổiをbuồiと言い間違えると、男性の股間を表す単語になってしまうので注意が必要だ!!私はこの発音の違いがハッキリわかっていなかったため、社内で

チ○ポ チ○ポ チ○ポ チ○ポ 

と、堂々と大声で話していたことさえある。


 当のベトナムの方に指摘してもらえたから良かったものの、私の平凡なサラリーマン人生が唐突に終わりをむかえるぎりぎりの状態にあったことになるわけで、まさしく「知らなかった」では済まされない事態だったのである。

 皆さんも、ベトナム語の発音には特に注意を払いましょう。
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札幌からハノイへ ベトナム日記〜ある日隣にベトナム人がきたらどうなるの?②

発音を巡る問題

 こうして、誰に知られることも無くひっそりとベトナム語マスターへの道を歩み始めた私は、半歩もすすまないうちに早速大きな壁にぶちあたってしまう。

はて?どうやってベトナム語を学べば良いのか?今いるベトナム人の皆さんが日本人と仲良くなるためにはどうしたら良いのだろう?

なにより問題なのはアジア言語につきもののえげつない文字と発音である

まずは文字だ。
ベトナム語には、日本人が「a」と認識する表記だけでもa、ă、âの3つがある。これはそれぞれ「あー→」「あー↗」「うお↗」となる。特に最後のâの発音は日本語には存在しないため、気持ち近い音をとって「うお」としたが、これは間違っている。個人的には、お腹を殴られたときに思わずでる雄叫びめいたものに似ていると思う。しかし、無いものは無いので素直にâとしておこう。

もうこの段階で既にベトナム語の習得なんて夢のまた夢なのに、さらに追い打ちをかけるような文字が我々の目の前に迫ってくる。

・ DとĐ     :「ぜ」と「でぃ」
・ EとÊ       :「えあ」と「え」
・ OとÔとƠ   :「お(口の奥の方で下を丸めた感じ)」と「お」と「うお→」
・ UとƯ     :「う(口を丸める)」と「う(口を平に)」

 ざっとこんな感じなのだが、ベトナム語を教えてくれている人の話しによると、ベトナム人でも聞いただけでは違いが分からない表記もあるのだという。

 それが

・ TRとCH
 
 これはどちらも「ちょ」というらしい。TRで「ちょ」だなんて、何かの間違いにしか思えないのだが、これはこれで間違いないらしい。いずれにせよこれで覚えるしか無い。
 それにしても、こちらが「aがいっぱいあるけど、それぞれ何が違うの?」と質問すると、ベトナム人は「こんなの全然違うよ〜!!」と言ってくるのだから、ベトナム語というのは本当に日本人泣かせな言語である。

 次に声調だ。

これは未だに理解し難い存在だ。
大体、中国語の4つの声調を聞き分けるだけでも困難極まりないのに、それをさらに6つに分けてしまうという狂気じみたことをしている。教科書を見ながら聞き比べしている分には何となく分かる気もしてくるのだが、何も見ないで聞くともうお手上げ状態である。

こういうときによく出てくる「ma」の音を例にとると、ベトナム語の声調は下記のようになる。

・ ma, mà, mả, mã, má, mạ

この音を線で表現するとそれぞれ「→」「↘」「↘の最後に詰まった感じ」「〜」「っ!」のような感じになる。これも文字情報では表現しきれないので、各自で調べてほしいのだが、特に「`」「 ̉」の違いは全く分からない。購入した教科書に付いていたCDの音量を思い切り大きくして聞いてみたところ、ようやく「嗚咽が詰まった感じ??」とおぼろげながら認識できた程度に過ぎなかった。

これをマスターしなければ先には進めないのがベトナム語の恐ろしいところなのだが、かといって、マスターするのを待っていたらいつまでたっても目の前にいるベトナム人の立場によりそって問題を解決することができない。ここで、ベトナム語ができないのにベトナム語でベトナム人とコンタクトをとるという難しい選択をするはめになってしまった。

札幌からハノイへ ベトナム日記〜とあるサラリーマンのベトナムへの旅路

少子高齢化という深刻な社会情勢の下、労働力不足を補うために日本のあちらこちらで外国人を雇う動きが活発化しています。
 なかでも、今最もその数を伸ばしているのがベトナム人。
 日本で働く外国人の数は2016年に過去最高の108万人となりましたが、そのうちベトナム人が前年比56.4%増と最大の伸びになったそうです。(日本経済新聞)

 はいはい、私の職場にも来ましたベトナム人。

金を稼ぐためとはいえ、遠い異国の地に来て生活しながら働こうというのですから、並大抵のことではありません。
職場に来た当初は、日本人側も笑顔で彼らを迎え入れ、まぁ、半年以上たったいまでも仲良くやっているので、基本的にはとりあえず上手くいっている感じ。

しかし、言葉が通じない・生活習慣が違うが故の問題もちらほら。

最大の問題、それは…

「日本に一方的にあわせろ。」という、日本サイドに必要があってベトナム人受け入れたにもかかわらず、彼らのことを理解しようとしない傲慢な態度です。

これに危機感を抱いた上層部は、アジアloveを貫くことで社内的に有名な私に「ベトナム語を学び、北海道商事(仮名)を彼らが働きやすい環境にせよ!!」という指令が出ました
学生時代は台湾で1ヶ月間中国語の研修を受けた私。社会人になってから旅行先と言えばもっぱら上海、ラオス、マレーシア、シンガポールと東南アジア地域に集中していた私。次は夏休みにでも韓国に行こうかと悩んでいた私。
そうだ!!会社のミッションと旅行の準備を兼ねることができる貴重な機会ではないか!!そう思った私。

イエッサーーー!!!

声高らかに一点の曇りも無く宣言しました。これは日本全体に通じる、誇り高き崇高な任務となるだろう。

かくして、私のベトナム語とベトナムへの旅は始まったのであります。

※今回から不定期で私のベトナム語奮闘記をご紹介します。私と同じような経緯でベトナム語を学ぶことになった皆様からの声をお待ちしております。

社会の視点 法案審議を尽くさず強行採決に!?これは野党の失敗というべきだろう

私の希望として、日本維新の会・足立康史衆議院議員には、民進党をはじめとした野党に対して「審議が尽くされているとは、どういう状況なのか?」と、国会で正していただきたいと思う。それも、民進党が民主党として政権についていた時代の"強行裁決"と比較して、なにがどのように違うのか、きちんと比較した上で。





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中立者としての庶民論②

 各派閥に所属しながらその一員として活躍する場合。

 これは、支持する政党や政治団体に所属し、そこの一員として特定のメッセージを発信し、その内容の実現を目指すことを言う。本論は、庶民が特定の主張の中で右往左往させられることを個人の危機とし、そこから脱する手立てを議論するものであるが、これは意識的にその中に身を置くことを目指すため、その主旨からは外れてしまう。しかし、日本人はレッテル貼りを好み、それは他者との対話を行わないことに起因する思考法であるとする私の立場では、敢えて特定の主張の中に身を置くことで、それ以外の主張の中に勝手に分類されることがなくなるというメリットがある。

 また、特定の派閥に所属しながら特定の行動をとった場合、それが派閥が外部から受けている評価と解釈の文脈でもってその行動が理解される、というのがある。あえて自身の労力で結果に対する釈明をしなくても、社会が派閥の論理を援用して評価を下すのだ。言い換えれば、あくまでも個々人の判断としてとられたはずの行動が、決してそうとは見なされなくなるということでもある。

この、「~として」という論法は、日常生活のあらゆる場所で見られる。いずれも、自身の過去の言動から生じた結果に対して距離を置き、事後的に評価を付け加える隙を作ろうとする時に多用される。

 時の内閣総理大臣が党の総裁として改憲の話をしたのか、それともあくまでも総理大臣として改憲の話をしたのかでゴールデンウィーク明けはもめたが、これも同じことである。あるいは、民進党は民主党から党名を変更することで旧党名の負のイメージを払拭することを目指したが、結局それは失敗に終わってしまった。なぜなら、看板が変わっても中身が変わらなかったことは言うまでもないが、それによって「都合が悪いものはなりふり構わずなかったことにしようとする、究極の無責任」が形となって表れたにすぎないということがはっきりしてしまったからである。民進党が、民主党時代のことを聞かれて「うちとは違う党だ」詭弁を弄した瞬間、すべての期待は瓦礫となって崩れてしまった。多くの国民は、「党名が変わっても人は変わらない。そして、党名の変更は彼らの責任回避の性質を象徴している。支持できる要素などどこにもない」と愛想を尽かしてしまったのは、自然なことである。仮にまた与党に返り咲き「あの時の発言はどうした」聞かれても、「与党に抗議するために野党として言っただけだ。今は関係ない。」と逃げる未来しか見えない。民進党は国の将来像を持たないが、国民は民進党の将来像を既に見透かしているのだ。
 両者は、「~として」という論法を多用することで、言動から生じた結果と距離をとろうとしている点が共通している。そして、どちらも信用の獲得という点で失敗している。

 肩書きや所属組織の名前を変えても、行動を起こした人間は同じである。選挙の時には、彼らは個人の名前を音害レベルで絶叫して議席にありつく。しかし、いざという時には「~として」という魔法の言葉で逃げてしまう。これでは政治に対する不信感が生まれて当然である。
 それでも、この言葉は支持者が支えている限りは有効な武器として作用する。結果を出し続けられる人間を支えるためには、多少の逃げ道を作っておいて、さらなる結果を作ってもらおうと期待することは、おかしいことではない。

 派閥に所属した時に注意したいのが、派閥の論理が持つ強力な磁力である。
 一個人では成し得ない大きな成果を、派閥はそのネットワーク、知識、資力、推進力によって生み出し、新たな名誉を付与する強力なエンジンとなっている。一個人がいかにズバ抜けた能力を有していようと、人間の集団が生み出す社会的生産物の前にはかなわないのだ。
 よって、派閥が生み出す政治経済的利益の恩恵を少しでも得ようとして多くの人間がそこに群がってくることになる。ちょっと握手しただけ、名刺を交換しただけ、写真を撮っただけ。それだけなのにそれを誇らしげに語り、自身を大きく見せようとすることの滑稽さを、人間は好んで演じているのである。
 彼らは、派閥の評価が高い時には散々利用するが、雲行きが怪しくなってくると手のひらを返し、無関係を装うようになる。あるいはそれができないとわかると、自分の政治的嗅覚の確かさを自慢し、「うまいこと泳ぎまわった自分」に酔うのである。何のことはない、自分が小物でずるい人間なのだだと自白しているだけなのに、認知的不協和によって、そこに自身の確かさを見出してしまうのである。
 しかし、派閥の核心は、そのような無責任なものではありえない。
追い風であろうと、逆風であろうと、そこから生ずる様々な利益・不利益そのすべてに、派閥の核心に身を置く者はさらされ続けなければならないのである。
 そして、この逆風の時こそ、人としての器量が試される。
 逆風であろうと自身の信念を持って行動を起こしたと断言できるならば、あるいはその過ちを素直に認め、次に向けて精進することを誓うならば、派閥内部の人間、そして外から見守ってきた支持者は、「次、また頑張れば良い!」と言うことができる。とにかく、「私が自分の足で歩いたのだ。そして転んだのだ。」と言える人間は強い。なぜなら、自分の歩き方の悪い部分を見直し、次の新しい挑戦を生み出すことができるからだ。安倍総理は、南スーダンのPKOや森友学園問題に際し、自身の言葉で「不測の時には、責任をとって総理を辞める」と断言できた。だからこそ、(例え政策そのものが支持されていないにしても)国民は今の政権に安堵感を覚えるのである。
 民進党は、この「私がやったのだ。でも、間違っていた。次はそれを直してまた頑張る!」ができない。民主党政権時代のことを国会で指摘されて「民進党は違う政党だ」と言ってしまったり、秘書のしたことは政治家の責任だといっていた人間が、自身の秘書のことになるとシラを切って「それとこれは別」と逃げてしまったりと、とにかく逃げる。これでは国民の信頼は得られまい。無責任な人間の集まりであるため、できることといえば小学生のような情緒的な権力への反発しかできず、政権攻撃(しかも、誰もが目を背けたくなるような稚拙な方法で)を繰り返して、結局返り討ちにあって終わってしまうのである。
 どちらの姿勢を支持するにせよ、派閥の磁力は、利益を引きつけると同時にに不利益をも引きつけるということを、ここでキチンと認識しておかなければならない。

 さて、ここまで「派閥」という言葉を乱用してきたが、本論において「派閥」とは、自民党の会派のみを指すものではない。ここでようやく私の定義を述べる。

「特定の思想・哲学の実現を推進する組織・共同体」これが本論における派閥である。
そしてそれに「所属する」とは、「派閥の論理に積極的かつ意図的に従い、そしてそれが対外的に明示されていること」である。


 冒頭で述べたが、派閥に所属することのメリットは、「自身に積極的にレッテルを貼る」ことで評価の予見可能性を高められることにある。

 日本人は、自身の意見をはっきりさせず、周りに同調することを良しとする傾向にあると言われる。その場の空気に支配されるのである。

「では、この空気を解釈するのは誰なのか?」

 問題はここだ。

 支配者は空気であるため、そこに人格は存在しない。人格がないということは、誰もが共通して認識することができる規範がないということを意味している。そしてそれが意味する究極のところは、「解釈者の都合によって、その者の存在の大きさによって」我々は不毛な正義を巡る争いに巻き込まれてしまうことである。

 例えば、ある領土問題を抱えている国の大統領と総理が首脳会談を行うとする。総理は「私の代で解決する」と自信満々に語るものだから、国民は期待する。しかし、経済協力と多少の政治的な口約束をしただけで首脳会談は終わってしまった。両首脳の笑顔とは裏腹に、国民の顔には苦笑いが浮かぶ。その後、この会談に評価を下す世論調査がメディアによって行われ、内閣支持率が60%から40%まで下がった。
 野党は現状を「期待の空気」から「失望の空気」へ変わったことを敏感に感じ取り、内閣打倒を画策する。「国民の期待に応えられなかった政権は、総辞職すべきだ」と。しかし、政権側も「話は今、始まったばかりなのだ!」と譲らない。

 どちらの主張にも、ある程度の説得力がある。
「成果を出せなかった者はクビ」、「今は成果まで遠いが、これからなのだ」と。
野党は国民の間にある空気を読み取って攻勢をかけ、与党は守勢にたたされたわけだが、どちらにしても、我々国民の声をしっかり反映しているとは言いがたいのではないだろうか。

「いやいや、成果を出すにはどうしたら良いのかを考えろよ!人を変えるのは手段の1つであって、それ自体が目的になった野党は要らないよ。与党も気をつけてよ」
これこそが、国民が国会に対して最も言いたい事なのではないだろうか。

 しかし、空気の解釈者である与野党は、自身に都合の良い解釈によって持論を展開してしまう。結局、国民を支配する空気がそのまま国会に届く事はなく、極端に拡大され、縮小され、捻じ曲げられ、全くの別物として作り直された形となって、その後の政争が続けられていくのである。

 積極的に派閥に所属するという選択は、与野党の極端な空気の解釈から自身を遠ざける事ができるというメリットを生む。自らの意見をハッキリとさせず、尚且つ空気に支配される日本人の傾向は、覇権争いに明け暮れる政治屋の恰好の餌となるのだという事に注意が必要だ。
 ここで、国民が自らが所属する派閥を政治屋に対してハッキリと言う事ができれば、政治屋はその声を無視する事が出来なくなる。空気の解釈によって生まれる不毛で稚拙な論戦から、国会を救う事ができるのではないだろうか。




ゴールデンウィークドライブの決め手! 支笏湖xアイヌxあげいも

 新千歳空港から車で約40分。千歳市街を通り抜け、千歳川にそった山中の道を行くと、やがて見えてくるのが日本一の透明度を誇る支笏湖である。

 最大水深は約360m、平均水深は約265mと深く、この数字は秋田県の田沢湖に次いで2番目である
(出典:千歳市公式ホームページ)。この深さの影響で、冬でも湖の中に温かさが残るため、日本最北の不凍湖としても有名である。

支笏湖 のコピー
google mapより


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東京散歩 新御茶ノ水で見た二つの稲荷~東京小旅行記

3月某日、私用で東京・御茶ノ水まで足を運ぶことになっていた私は、出発前に地図を眺めていて大変驚きました。

!!??稲荷神社が至近距離に2カ所もある!!??

新御茶ノ水 のコピー
地図の真ん中と左上にある2つの稲荷








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中立者としての庶民論

問題意識の所在

 中央・地方の如何を問わず、選挙が行われる際には「無党派層の取り込み」が第一の課題として取り上げられるようになって久しい。新聞、雑誌、テレビ、果てはインターネットに至るまで、この層の取扱いを巡って議論や分析を戦わせ、政治家達も彼らの関心をどのようにして引きつけるか日々策を練っている状態である。
 しかし、この手の議論や分析と選挙結果との結びつきが、どの程度はっきりしているのかはほとんどわからない。「大体そうであるらしい」ということが、おぼろげながら見えているにすぎない。
 共産党支持者や労働組合、経済団体、宗教団体のように、団体の主義主張と支持政党が密接に結びついている場合ならばともかく、この無党派層というものは「経済を立て直してほしい」「福祉が心配だ」「年金が心配だ」というテーマだけははっきりしているが、「このテーマに対して政治家が何をすれば正解と言えるのか」については、全くの無頓着なのだ。
 論理的に考えても、それは明らかだ。「テーマは〇〇。策は〇〇。だから〇〇を支持する」といえるのならば、それは既に無党派層とは言えない。
よって、世の様々な専門家や評論家、政治家が、無党派層の行動についてあれこれ偉そうに講釈を垂れることとなるが、所詮は人間の解釈であるため、個人のしたいように解釈している状況になってしまう。
 「自民党は何となく嫌かも。適当に民進党に入れておこう」という程度の意思が、考えの浅い民進党や評論家の手にかかれば「国民が自民党にはっきりとNOを突きつけた形だ。」という解釈になってしまうのだ。そしてさらに飛躍していき、第一線の民進党議員達は「現政権は国民の声に誠実に耳を傾けよ」などと偉そうに説教まではじめてしまうのである。「はっきりとNO」なんて、そうそう何度もあるもんじゃないって。支持者には申し訳ないけど。

 無党派というくらいだから、その行動もどっち付かずであることが前提のはずなのに、いざ選挙が終わってしまうと「確固たる意思をもった支持者」にいつの間にか変身してしまっているのである。あれ?無党派はどこへ消えた?

 本論で私が提起したい議論は、自民党や民進党についてではなく、個別の政策についてでもなく、無党派層のこの華麗なる変身の例のように、「いつの間にか、確固たる意思を持った人間に変身させられてしまっている」という状況に対して、我々はどのような姿勢で臨むべきなのかを考えることにある。

日本人はレッテル貼りが大好き

よく言われることだが、この言葉についてよくよく考えると、「レッテル貼りとは、日本人は他人に対して個人的独善的な評価を一方的に与えている」ということを意味しているように思われる。評価者と被評価者のコミュニケーションが密に行われた上で、被評価者にしてもある程度はその評価を認めているならば「レッテル貼り」などという言葉が出てくるはずが無いからだ。
刑事裁判において被告が有罪か無罪かを決するためには詳細かつ緻密に事実と証拠を積み上げ、犯行が行われた際の当事者の心理状態にまで深く入り込み、事細やかな事実認定が行われた上で結審する。弁護人と検察側の激しい弁論のもと、最終的には裁判官が判断を下すのである。判断を下すためには、一時的な感情に判断を左右されること無く、全ての情報を冷静に天秤にかけなければならない。
報道番組は問題となる事件をセンセーショナルに報道する癖があるため、この裁判の結果に対して我々は「刑が重すぎる・軽すぎる」「被害者感情を軽視している」などと無責任に言いがちだが、それは「裁判に立たされているのは極悪人であり、何を言おうと言い訳に過ぎない」という「レッテル貼り」を無意識に行っていることの表れである。「推定無罪」などという言葉は、露程も出て来ないのだ。
今、森友学園問題がテレビ・ラジオ・新聞・雑誌を連日賑わせている。この学園をめぐる不明瞭な土地の売買や政治家達との関係は問題となってしかるべきだが、教育方針やその異常性にまでマスコミが偉そうに介入しだしたのは風評被害以外の何者でもない。
確かに、この学園の教育方針や教育風景は我々にとって異様なものに移る。国粋主義を煽るその教育姿勢は、普段我々が常日頃批判している北朝鮮のそれと重なって見えるところがあるため、「異常だ!!」と感情的に批判したくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、教育方針の異常性は今回の問題点ではない。そもそも、この学園は私立であるため、我々がとやかくいう筋合いは無い(政治家との不適切な関係性があったのであればまた話しは変わるだろうが、当の政治家達はそれを否定しているし、立証もされていない。断定する決め手が無い以上は、批判を控えるべきだ。ただし、追求はすべきだ。)。それが問題なら、仏教やキリスト教が建学の精神になっている私立大学も問題視されなければならない。
にもかかわらず、既に国会議事堂周辺やネット上では断定できないことをあたかも全て事実であるかのようにあげつらい、政治家達を断罪する動きが出て来ている。人が人を裁くには、よほどの注意が必要であるにもかかわらず、こと政権批判の場面となると週刊誌の切り抜き程度で「責任をとって辞任を!!」と野党や政権に批判的な国民は容易く言ってしまうのだ。裁判の例と比較して冷静に物事を見てみると、いかに我々が性急に結論を出したがっているかがよくわかる。
そこに議論を通じた事実の追求、真相の究明という一番肝心な姿勢はどこにも見当たらない。
これをレッテル貼りと言わずして、何と言えば良いのだろうか。

日本人は、イエスとノーをはっきりいうことができない優柔不断な性格をしているにもかかわらず、他人を評価するということに関しては、いきなり自身のものの見方に自信を持ってしまうという摩訶不思議な現象が時折見られるのである(←そしてこれもレッテル貼りの一例といえるだろう)。

複雑な評価の網の中で

 他者との対話の欠如と時に対話の拒絶というレベルにまで達する会話軽視こそが「レッテル貼り」の真意であることを説いた。その背景には、自らの信念に対する絶対的な無謬性の確信、巨悪と戦う自己という圧倒的な自己陶酔、誤りを認めることへのエゴイズム崩壊の危機感に対する認知的不協和が複雑に絡み合っている。
 北朝鮮や韓国が日本を口撃するときのレトリックにも似ている。彼らは、日本が歴史認識を改めず、日本の主張は全てにおいて不当で、兄である韓民族に対する不敬を認めようともしない、それに振り回されている我々は常に被害者であり、日本は悪の権化であるという「レッテル貼り」を行う。
 彼らを批判する日本のネトウヨとされる方々も同じである。韓国で高速鉄道が事故を起こすと「劣等民族だから」「彼らに文明は早い」などと罵声を浴びせ、恥ずかしめを与え、中国との関係に関しては「はやく吸収されてしまえ」などと口走る者さえいる。ネトウヨの方々は、日本の先人達が「朝鮮は何としてでも独立させなければ、日本の存続にもかかわる」と不退転の覚悟で臨んだ外交姿勢に唾をはきかけてしまっているのである。逆に、日本側が彼らとの関係構築を行うに際して研究が不足しているなどとは夢にも思わないのだ。
 
 何やら批判をつらつらと挙げてばかりいるようだが、この双方の「レッテル貼り合戦」に巻き込まれないようにする生き方を見つけようというのが私の議論だ。
 現代は、皆がそれぞれ自分の正義を振りかざしてその正当性をぶつけ合っているというのが現状だ。そして庶民は常にそこに巻き込まれながら生きているのである。

 この現実に対して、我々が取りうる姿勢は以下の4つだ。

① どこかの派閥に属し、構成員として生きる
② 派閥を利用できるよう新たな派閥を作る(毒を以て、毒を制す)
③ その時の支配者に形だけあわせる
④ 全て拒否する


次回以降、この4つの生き方に対する論を更に少しずつ深めて行く。




新入社員諸君、泣くな!先輩諸君、後輩との対話を!!

Scan 1



泣く人…あなたの職場にもいますよね?

うれし泣きや悔し泣きなどの涙があるにせよ、社会人なのだから安易に泣くのは勘弁してほしいところ。なかには、「え、そんなので?」という理由で泣く人も…。

例えば…。

・仕事がこんなんだとは思いませんでした。
・二次会が嫌です(誰も強制はしていない)。
・仕事のミス。

これは私のまわりで本当に聞かれた理由達です。
学校を卒業して、重たい責任を背負い、慣れない環境と精神状態で仕事をする新入社員の皆さんの不安、わかります。ここ数年来、毎年毎年、「最近の若い者は打たれ弱い」とよく言われます。こう言うのは、恐らくこうした涙もろい新入社員に面食らった先輩社員の方々の正直な気持ちの表れなのでしょう。その気持ち、わかります。

どちらの気持ちもわかるのですが、新たに社会人の仲間入りを果たす皆さんには、是非精神力を鍛え、「泣くのは親が死んだときだけ!!」くらいの強靭な気持ちで職場に出て来てほしいです。

なぜなら、上記のような理由であまりにも簡単に泣かれてしまうと、皆さんの面倒を見る先輩方が意味もなく上司から怒られてしまうことになるからです。

「泣いてしまったのは、先輩方が悪いんでしょ?」などと思わないでください(もちろん、先輩が悪いケースもありますが)。「この新入社員泣くから、もう適当で良いや」などと先輩に思われたらどうするつもりですか?涙という形で感情が出て来てしまった場合、そこから必要になるのは互いのコミュニケーションで双方の感情のギャップを埋める努力です。つまり、対話です。
しかし、双方が感情的に自分の言いたいことをいうだけになってしまうと、当の新入社員は仕事を教えてもらえず同期と差をつけられ、先輩社員は後任が育たないからいつまでも仕事が忙しいまま。寧ろ、そりの合わない後輩の面倒を見る分、余計に忙しくなってしまっています。悲しいくらい双方得るものがないわけです。

なので、新入社員の皆さんは、泣く意外の方法で自分の感情と意思を表現する方法を身につけ、常に先輩と対話ができる関係を構築できるよう努力してください。先輩社員の皆さんは、後輩に対して常に窓口を大きく開け、常に話しかけてあげてください。本人が思う以上に、新入社員は先輩社員を大きく感じ、身構えてしまっているものなのです。

これだけで、双方のコミュニケーションは相当円滑になるはずです。
くれぐれも注意しましょう。




背伸び系〇〇あるある

Scan.jpeg



いますね。こういう新入社員。

知的な自分を演出しようとして、形だけ頑張るのですが、背伸び状態だからなかなか内容が頭に入って来ない状態です。
しかし、それも最初のうちだけ。読んだ内容をキチンと整理し、自社の事業やライバル会社、関連企業のことがわかるようになればしめたもの。同期にも大きく差をつけることができます。

私も日経新聞は読むのですが、わからないことだらけなので、この漫画と同じ感じになってます(笑)

2017年春入社の皆さん、大学・高校卒業まであとわずか!!
友達との飲み会やバイト、卒業旅行に大忙しだと思います(私は九州旅行と台湾旅行に行きました)。限られた時間を有意義に過ごしてくださいね!!





オススメ!!世界をおっきく小さくする読書

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閲覧いただき、ありがとうございます。

当ブログは、「人生を味わい深いものにするためには、どんな情報や発想、知識が求められるのか」という疑問を元に、仕事、時事問題、国内外の旅行、教養といった分野からヒントをもらっていこうというのが主旨となっています。
また、英語での日本情報発信(主に私の英語の練習のためですけど)も行っていますので、「この英語、変じゃない?」という指摘も送って下さると助かります。

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